
東日本大震災および能登半島地震からの復旧を通じた新たなコミュニティモデルの創出 第3回 東日本大震災からの「復興×まちづくり」を進める女川町に学ぶ
行政、議会、町民、産業界の4者が連携することで東日本大震災での甚大な津波被害から復興しつつある女川町の取り組みに着目し、「復興×まちづくり」を検討するにあたってのポイントを紹介します。
2024年の元日に発生した能登半島地震は、改めて日本がいつ何時も震災と向き合い続けなければならないことを示しました。そして、私たちにできることは備えることです。
しかし、いつ何時も全てに対して、備えきることは費用対効果の観点から現実的ではありません。そのため、コミュニティのレジリエンス向上やインフラの強靭化、各人の意識醸成などの推進が欠かせません。こうした課題認識は既に広く定着しているものの、新たに何をすべきなのかが見えないのが現状ではないでしょうか。
私たちは本連載を通じて、激甚災害に係る行政運営上の課題や震災復興のナレッジ共有、論点の提示、復旧復興の在り方、デジタル活用を通した新たなコミュニティづくりなど、いくつかの論点を発信したいと考えています。
そして、私たちのナレッジを少しでも多く公開することで、どこかで、誰かのお役に立ちたいと考えています。
能登半島地震の復興に関わる皆様が少しでも前向きになり、少しでもホッとする時間ができ、また悩みや想いを語り合うきっかけを持っていただけたら――。そうした想いでコラムシリーズを書かせていただきます。
日本は震災大国であると同時に、災害から立ち直る経験を豊富に有している国と言えます。一方、各地に在在する震災復興のナレッジが、必ずしも日本全体のナレッジになっていないのが現状です。本稿では、東日本大震災での甚大な津波被害から復興を遂げつつある女川町のこれまでの取り組みのうち、初動に着目し「復興×まちづくり」のポイントを明らかにします。
本コラムが、復興からのまちづくりを検討される際の一助となれば幸いです。
女川町は、宮城県の東、牡鹿半島基部に位置し、風光明媚なリアス式海岸は天然の良港を形成し、カキやホタテ、ホヤ、銀鮭などの養殖業が盛んです。また、世界三大漁場の1つである金華山漁場が近いことから、魚市場には年間を通じて暖流・寒流の豊富な魚種が数多く水揚げされる漁業・漁業加工業が盛んな港町です1。
東日本大震災では中心市街地に約15mの津波が襲い、320ha(東京ドーム約70個分)に及ぶ被害を受けました。浸水域には約90%の町民が暮らしており、宮城県で最も高い割合です。
その影響は犠牲率8.3%、被災率87.7%という数字にも表れているように、東日本大震災で最大級の被災率であり、甚大な被害を受けました。その被害は、自分の家がどの辺りにあったのかも確認できない程でした2。
そんな中、被災2カ月後、町役場は復興の方向性を示すことを目標に動き出します。被災1カ月後、遺体捜索や避難所運営などの復旧対応と行政機能再建で手一杯な中、女川町役場は、がれき処理・仮設住宅・次世代まちづくりの3テーマを並走して検討を進めていました。
また、町役場が苦しい状況にあることを踏まえ、同時期に商工会・観光協会を中心に民間任意団体「女川町復興連絡協議会(以下、FRK)」を発足させ、復旧・復興に向けた検討を開始します。
地域で起きた課題を行政と民間の枠を超えて自分事として捉え、協働で検討が進められています。犠牲率約10%と、誰もが親戚のどなたかを亡くしていてもおかしくない状況で、検討推進者も被災者の1人である中、被災1カ月後にすでにこうした議論の土壌があったことは、その後のまちづくりに大きく貢献しました。
町の90%近くが被災した女川町は、実質ゼロからまちづくりを進めたと言っても過言ではありません。
まちづくりは多くのステークホルダーが関与することから、これまでの歴史や慣習などの取り込みが難しく、多くの人にとって経験がない未知のテーマであり、全体像の見えない日常生活からは遠い存在です。
そうした中、FRK設立総会で商工会長が「復興には10~20年もかかる。だから計画・企画・活動の中心は10~20年後の責任世代である今の30~40代に託す。『還暦以上は口を出すな』のまちづくりで進めたい。還暦以上の者は後方支援に尽力する」と宣言したことで、多くの人にとって経験がない未知のテーマを自分事と捉えやすい環境づくりが進みます。
こうしたアプローチは珍しいのですが、人口減少社会で欠かせないシビックプライドの醸成や郷土への誇りの形成にも有効です。また、商工会長が他者から求められた上でのアプローチではなく、「地域の未来に必要な決断は何か」「地域がもたらす価値とは何か」を自ら説き、内発的に発していることが女川町のまちづくりに大きな意味をもたらしています。
行政側のつなぎ役を女川町公民連携室、民間側のつなぎ役をFRKと商工会が担うことでより多くの方の声を拾う仕組みを整え、持続的な地域経営に向けて欠かせない行政・議会・町民・産業界の4者が相互に連携しながら街づくりを進めています。
多様なプレイヤーが互いを尊敬し状況を理解し合い、その時にアクションを取れる最良のプレイヤーが議論を進める。
こうした一体感の早期構築が、多くの町民に前を向く機会を与え、“復興への希望”を持つ機運醸成につながっています。
町の大部分が津波被害に遭った当時の女川町は、復興後の“まち”の姿を想像することが難しい状況でした。
しかし、住民なくして“まち”は成立しません。
そこで、発災直後から「女川で暮らすこと」を想像しやすいように、災害FMラジオや避難所への情報発信など、積極的に情報公開を進めていきます。
時には、後に状況が変わり誤情報を発信してしまうこともあったそうです。一方、「女川で暮らすこと」を少しでも想像してもらえるように、その時点で持つ情報を積極的に情報発信することを心がけていました。
正確性を高めるために情報を精査することは重要です。しかし、情報共有の遅延は疎外感や不安感を冗長することにもつながります。有事には積極的な情報公開と迅速な訂正、真摯な対話が欠かせません。
また、住民中心のまちづくりに向け、町は町民へのヒアリングを実施しました。避難所にいる方、二次避難先の方、町外へ避難された方など、置かれた状況はさまざまです。
そして、役場も被災し、住民情報がありません。仮に住所が判っても、その場所に家がないなど、平常時のヒアリングとは勝手が異なります。
そこで、町民同士の口コミを活用するなど、さまざまなアプローチを通じて情報を発信し、会場への移動を考慮し、住んでいた地区ごとでのヒアリング会場設置や、避難所でのヒアリングなど、約2年をかけて90%近くの町民にヒアリングを実施しました。
第1回のヒアリングでは基礎情報の収集、第2回のヒアリングでは再建に向けた希望調査を主として実施しています。また、ヒアリングは役場職員が実施し、メモ作成を外部企業に委託するなど、町民が話をしやすい環境づくりを進めていることも特徴的です。
町民意向カルテの情報だけを基にまちのグランドデザインを構築し、名ばかりのまちづくり会議を進めていたとしたら、今日の女川町はなかったと考えます。
女川町では、町長も参加する広聴会が約240回開催され、まちのグランドデザインを町長自らが語り、町民との対話を進めています。
そこでも、役場や事業者の置かれた状況、回答可能な領域、タイミングなどを踏まえ、行政とFRKがつなぎ役として協働することで、一体感を持った議論を進めています。
円滑な業務遂行を優先する際は、前提条件を提示し、議論の範囲を絞ることが有効です。また、まちづくり会議のように多種多様な意見が不規則に発せられる場合、進捗に大きな影響が出る事項を隠したくなる気持ちも分かります。しかしそれでは、多くの住民が納得感を持ったまちづくりやシビックプライド醸成、まちづくりの自分事化を推進することは困難です。
女川町の広聴会・復興デザイン会議では、建設コンサルタント会社と独立行政法人都市再生機構(UR)と行政が事前に検討した具体的なゾーニング案を基に議論が進められています。
議論内容は完全公開とし、誰でもコメントして良いという雰囲気が醸成されています。結果、行政事務の負荷は非常に高くなります。しかし、当時の担当者から「非常に忙しかった。しかし、広聴会を通して街が良くなっていくイメージ、住民がまちを自分事として捉えて本気で議論している熱量を感じた」と伺っています。
これは被災直後から女川で暮らすことを想像してもらうために進めていた“まちの自分事化促進”の成果だと考えます。
まちづくりには状況変化により、議論の前提条件が変わることが多々発生します。そうした事態が起きる可能性があることを伝えながらも、その時に見えている情報を真摯に発信することで、町民の不安解消・街に住むことへの解像度の向上に効果的です。広聴会や復興デザイン会議、真摯な情報公開により、行政・議会・町民・産業界の信頼関係が強化され、今日の女川町につながっています。
本稿で紹介した女川町の取り組みは、復興過程のほんの一部です。
被害状況から復興計画の検討変遷までの詳細は「女川町 復興記録誌」(女川町HPにて公開)に記載されています。
本件は日本に1,700以上ある市区町村の中で、稀な1つの事例かもしれません。しかし、希望の1つとして、改めてここに示したいと考えます。
気候変動により、今後の災害の激甚化が予想されます。また、人口減少が加速する未来では、従来のアプローチで対応しきれない事象が増えることも容易に想像できます。
そのような状況を生き抜くためには、被災現場の最前線にいる官公庁や地方自治体の職員だけでなく、支援に入る可能性がある事業者、被災者の1人になる可能性がある私たち個人もこうした事例を学び続け、備える必要があります。
そうした地域の復興事例を日本全体のナレッジとすること。
時間や場所の制約を打破するテクノロジーを活用し、ステークホルダー同士の知の協働により人口減少社会におけるアセット不足を補っていくこと。これらが現代のレジリエンス強化を実現すると確信しています。
女川町の皆様には、能登半島地震での被災自治体との会議において、惜しみなくナレッジを共有していただきました。
この場を借りて、改めて感謝申し上げます。誠にありがとうございました。
行政、議会、町民、産業界の4者が連携することで東日本大震災での甚大な津波被害から復興しつつある女川町の取り組みに着目し、「復興×まちづくり」を検討するにあたってのポイントを紹介します。
災害が発生した際には、国・都道府県・市町村が連携することで被害の拡大を防ぎ、迅速に復旧を図ることが求められています。 国と自治体の連携の現状と、今後検討すべきことについて考察します。
東日本大震災や能登半島地震からの復旧、復興を考えることは、日本における新しいコミュニティのモデルを具現化することに通じます。コミュニティのデジタルシフトがそのための選択肢の1つとなることと、その有用さについて解説します。