
日本の強みを生かした新産業創造の必要性(前編) 採るべき戦略はマルチパスウェイ。多様化するエネルギー利用のなかで、水素エンジンが持つ役割とは
京都大学の塩路昌宏名誉教授と、国立研究開発法人新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)、水素小型モビリティ・エンジン研究組合(HySE)の担当者をお招きし、水素社会実現に向けた内燃機関やマルチパスウェイの重要性について議論しました。
カーボンニュートラル社会の実現に向け、エネルギー分野ではマルチパスウェイでの取り組みが求められています。有力な選択肢として期待されるのが、小型モビリティ用の水素内燃機関技術の実現です。
PwCコンサルティング合同会社は、国立研究開発法人新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)の事業に採択され、京都大学の塩路昌宏・名誉教授が委員長、技術研究組合水素小型モビリティ・エンジン研究組合(HySE)の上田浩矢氏、市聡顕氏、二宮至成氏、中島彰利氏が委員として参加する検討委員会を設置し、小型モビリティ用水素内燃機関技術の実現に向け、当該技術の優位性の分析、課題の洗い出しと解決方法の検討を進めてきました。
今回は、塩路名誉教授と、NEDO、水素エンジンを搭載した小型モビリティの設計指針の確立を目指す「水素小型モビリティ・エンジン研究組合(HySE)」の担当者をお招きし、議論を行いました。前編では、水素社会実現に向けた内燃機関や、カーボンニュートラルの実現の手段を一つに狭めず、複数の技術開発・実用化を進めるマルチパスウェイの重要性についてのディスカッションを紹介します。
後、左から、菊池 雄介、上田 浩矢氏、二宮 至成氏、渡邊 敏康
前、左から、中島 彰利氏、塩路 昌宏氏、藤田 睦美氏、市 聡顕氏
登場者
塩路 昌宏氏
京都大学名誉教授
藤田 睦美氏
国立研究開発法人新エネルギー・産業技術総合開発機構 水素・アンモニア部 統括課 課長
上田 浩矢氏
技術研究組合 水素小型モビリティ・エンジン研究組合(HySE)研究ステアリング委員会 委員長
本田技研工業株式会社 二輪・パワープロダクツ事業本部 二輪・パワープロダクツ開発生産統括部 パワーユニット開発部 運営マネジメント課 課長
市 聡顕氏
技術研究組合 水素小型モビリティ・エンジン研究組合(HySE)研究ステアリング委員会 委員
カワサキモータース株式会社 航空システム総括部 副総括部長
二宮 至成氏
技術研究組合 水素小型モビリティ・エンジン研究組合(HySE)研究ステアリング委員会 委員
スズキ株式会社二輪パワートレイン技術部 主査
中島 彰利氏
技術研究組合 水素小型モビリティ・エンジン研究組合(HySE)研究ステアリング委員会 委員
ヤマハ発動機株式会社 パワートレイン開発本部
パワートレイン統合戦略 シニアストラテジーリード
渡邊 敏康
PwCコンサルティング合同会社 パートナー
菊池 雄介
PwCコンサルティング合同会社 シニアマネージャー
菊池:
塩路先生は長年、内燃機関の研究に取り組まれ、水素社会の実現をテーマとして各種執筆や講演なども実施されています。水素社会実現に向けた現状の課題や今後の見通しを教えていただけますか。
塩路:
水素は、複数のエネルギー源を使い、水から製造可能という、豊富なポテンシャルを持つ二次エネルギーです。燃焼時にCO2を排出せず、電気と比較して大きなエネルギーを長期間貯蔵できるという特徴を持っています。
カーボンニュートラルの実現には、再生可能エネルギー(以下、再エネ)の普及が必要です。しかし、再エネは需給のバランスが取れずに余剰電力が生まれるという課題があります。数メガワットを超える余剰電力を、季節をまたいで蓄電池で長期間貯蔵することは困難ですので、電力を水素に変換して貯蔵する方法が有効になってきます。また、水素はCO2を用いて比較的容易に気体燃料、液体燃料を合成できるという特性があり、将来的には電気と水素が補完し合う、エネルギーの多様化も想定できます。
運輸部門にフォーカスすると、持続可能な社会に向けてはエネルギー密度の高い燃料の利用が求められており、今後も内燃機関が一定の役割を果たせると考えています。特に期待されているのが水素エンジンです。開発は古くから進められていますが、実用化には安価な水素供給が前提となります。現在の課題は、水素の製造技術の確立とサプライチェーンの構築です。
とはいえ、一次エネルギーの大半を輸入に頼っている以上、日本だけで解決できる問題ではありません。他国のエネルギー・環境の状況や条件を踏まえた国際連携の強化が必要ですし、エネルギー安全保障上の観点からは、調達源の多様化と調達先の多角化を推進していくとともに、余剰再エネなどを利用した、国内での水素製造技術基盤の確立も重要です。
いずれにせよ、今後は水素の環境価値を正しく評価し、制度化を通じて水素社会構築に向かうと考えています。
ただし、水素社会の構築はそれ自体が目的ではなく、あくまでも目的はカーボンニュートラルの実現です。カーボンニュートラルが実現できた時には、必然的に水素社会が構築されていることになります。
京都大学名誉教授 塩路 昌宏氏
菊池:
NEDOにおいては水素社会実現に向けてさまざまな研究開発や実証事業、調査研究に取り組まれていますが、内燃機関はどのような位置づけなのでしょうか。
藤田氏:
水素のサプライチェーンは、作る・運ぶ・貯める・使うに分けられます。一口に水素社会といっても、何から作るか、何で運ぶか、どう使っていくかというところで、さまざまな選択肢や可能性があります。
現在NEDOでは、技術のレベルアップによる競争力強化、低コスト化による競争力強化、多くのプレイヤーにより多様性を高めることによる競争的な環境という3つの意味での競争的な水素サプライチェーン構築に向けた技術開発事業を行っています。特に低コスト化やレジリエンスという意味において、技術の多様性は一つのポイントになると思います。
水素の社会実装を促すためには、安定的な供給確保と大規模な需要創出を一体的に進めていくことが大事ですが、いま世界的に水素の製造側に投資や計画が偏っていると言われています。供給サイドとともに、「使う」用途を拡大することが、将来の需要の底上げにつながると考えています。また、資源の安定供給は多様な選択肢を持ってリスクを分散させることが重要ですが、今回の小型の水素エンジンは、「使う」方法を多様化するとともに、レアメタルを使わないという意味で非常に魅力的です。
国立研究開発法人新エネルギー・産業技術総合開発機構 水素・アンモニア部 統括課 課長 藤田 睦美氏
菊池:
二輪メーカーの4社が正会員として立ち上げたHySEは、水素社会実現に向けたマルチパスウェイという戦略、その中での内燃機関の位置づけをどのように捉えていますか。
中島:
モビリティの種類や使われ方、使う地域にはさまざまな違いがあり、さらに各国の資源の採取の状況や使われ方、使用シーンを考えると、現時点で、これが最適という技術を提示するのは難しい状況です。その状況下で技術の幅を狭めるのはまだ良くないという考え方で、各社がマルチパスウェイという選択肢を採っています。エネルギーの安定確保という視点でも、リスク回避のためにエネルギーを複線で準備し、エネルギーの種類に応じて使えるように技術開発しておく必要があります。
技術研究組合 水素小型モビリティ・エンジン研究組合(HySE)研究ステアリング委員会 委員 中島 彰利氏
市:
エンジンの良いところは、小型、軽量、高出力で、負荷の変化に俊敏・柔軟に対応できる点です。これらは電気自動車(EV)や燃料電池に比べると、自由度が高い。また、バッテリーや燃料電池と比べて少ないCO2排出量で製造できますので、ライフサイクルアセスメント(LCA)の観点でも、エンジンの活用は重要です。水素エンジンでいえば、ガソリンエンジンの構造をほぼ変えることなく、水素を供給するインジェクターを変えるだけですので、日本産業の強みであるエンジンを活かせます。
また、エネルギー供給の観点から見ると、エンジンは水素の純度に対する寛容度が非常に高いというメリットがあります。燃料電池はほぼピュアな水素が必要ですが、エンジンの場合は多少混合物があっても、それに合わせた活用が可能です。地域の実情に即した応用が利くところが水素エンジンの良いところで、ここに取り組む意義というのは非常に高いと考えます。特に小型モビリティや小型の作業機械に対してはなくてはならないものです。
塩路:
水素純度の寛容度の高さは、価格の抑制に寄与するなどメリットが複数あると思いますが、混焼は許容範疇に入りますか。
※混焼:水素だけではなく、他の燃料と混合して燃焼させること
市:
天然ガスや水素は価格や調達可能性の課題があります。一定速度で運転する定置型発電エンジンでは、それをうまく組み合わせ、どんな混焼率でも燃やせるマルチ燃料割合の開発も進んでいます。天然ガスや水素を、経済的側面といったその時の事情に合わせて混焼できるメリットがあります。小型モビリティの場合はあらかじめ混合した燃料を搭載することで、航続距離を延長するなどさまざまなメリットが考えられると思います。
一方で小型エンジンは運転速度の大幅な変化を伴う使用方法のため、充填ごとにさまざまな混合割合に対応させるためには研究課題もあると予想されます。
技術研究組合 水素小型モビリティ・エンジン研究組合(HySE)研究ステアリング委員会 委員 市 聡顕氏
二宮:
混焼燃料の社会実装への動きはグローバルでも始まっています。例えば、天然ガスの産出国であるインドは、自動車用のCNG(圧縮天然ガス)とCBG(圧縮メタンガス:牛糞や生ごみから生成されるバイオガスを圧縮した燃料)の混合を段階的に義務化しています。先ほど中島さんが指摘されたように、国や地域ごとにエネルギー政策は異なり、モビリティのメーカーにとっては「変数」となります。それらに対応するためにも、マルチパスウェイの取り組みが必須になってくるのです。
塩路:
LCAの観点では、EVのバッテリーの排出量低減がなかなか難しいという事情があります。その文脈からも水素エンジンという選択肢が浮上してきます。LCAをどこまで重要視するかという社会の動きも関係してきますね。
市:
それがマルチパスウェイでつながると思います。例えば移動におけるラストワンマイルは電動が一番いいが、もう少し距離がある場合は電動では無理があるので水素エンジンで、というようにツールの使い分けも必要ではないでしょうか。
PwCコンサルティング合同会社 シニアマネージャー 菊池 雄介
塩路:
多様化は持続可能な社会の実現に向けては非常に重要なファクターです。一つだけに絞るのはリスクがある。レジリエンス的な対応も含めて、持続可能性を考えるとマルチパスウェイによる対応が大事です。
水素の普及においては、水から水素を作り出す電解装置の低価格化が課題です。国内外とも余剰電力を使うことが基本であり、その前提に立てば電力価格差はさほど問題ではありませんが、日本は再エネが豊富でないため設備利用率が低く、固定費の回収が難しくなります。
中島:
多様化の準備は必要ですが、それは条件が揃ってこそ。ここにはエネルギー事情や各国の政策も関わってきます。ですから、メーカーとしては幅を持って研究開発をしておかないといけません。
上田:
マルチパスウェイを「都合よく使っている」と指摘されることがあります。しかし、マルチパスウェイは都合よく使っているわけでも、まだメーカーとして技術や戦略を探査している段階を指しているわけでもありません。世界人口が増加し、一人当たりのエネルギー消費量も経済発展とともに増えていることを考えると、資源もエネルギーも一極集中は難しい。現実的には分散化してレジリエンスを高めるしかない。すわなち、マルチパスウェイでいくというのが最上の選択になるのです。
塩路:
マルチパスウェイと言ったら、将来はどれかに絞っていくというイメージを持たれやすいのですが、そうではなく将来に亘って「適材適所、ベストミックス」なのです。
藤田:
水素社会実現のためには、一般の方に理解を深めてもらうことも重要です。水素は目に見えず、一般の方には身近な存在とは言いづらい状況です。水素の活用や重要性を理解してもらうために、あらゆる人に理解してもらえるような経験や体験が重要です。
HySEは、水素エンジンバギー「HySE-X1」で世界一過酷なモーターレースと言われる、ダカールラリーに参加されました。モータースポーツという切り口はわかりやすく、ワクワクし、なんといってもかっこいい。こういった形で、水素やカーボンニュートラルの理解を広げていくということは一つの手段として非常に大事だと考えています。
京都大学の塩路昌宏名誉教授と、国立研究開発法人新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)、水素小型モビリティ・エンジン研究組合(HySE)の担当者をお招きし、水素社会実現に向けた内燃機関やマルチパスウェイの重要性について議論しました。
京都大学の塩路昌宏名誉教授と、国立研究開発法人新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)、水素小型モビリティ・エンジン研究組合(HySE)の担当者をお招きし、産官学連携での水素エンジンの研究開発の重要性と、具体的な課題について議論しました。
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