
2022年最新地政学リスク―『企業の地政学リスク対応実態調査2022』から見る企業動向とは
「調査編」では、PwC Japanグループが2019年、2020年に続いて2022年8月に実施した「企業の地政学リスク対応実態調査2022」の結果について解説します。大きな地政学的イベントを経験した日本企業は今、何を脅威と感じ、どのような対応を行っているのでしょうか。
2022-10-03
これまで2回のコラムでは、国際情勢の3つの大きなトレンドと、軍事衝突などのリスクや世界経済の分断・細分化のリスクが拡大していることを示してきました(図表1を参照)。
本編では、国家間競争において環境や人権といったイデオロギーが地政学的争点となっている現状について解説します。例えば、気候変動への対応は、相次ぐ気象災害を背景に市民レベルでも意識が高まり、新興国も含む多くの国・地域において国内・国際政治の重要項目となっています。一方、実際に炭素中立(カーボンニュートラル)を目指し温暖化効果ガスの排出量を削減していく上では、必要な技術の多くが未確立で研究開発途上にあることから、足元での安定的エネルギー供給を確保しながら技術開発と実装、市場形成を漸進的に進めて達成するという現実主義的立場を取る必要があります。そのため、各国は化石エネルギーの確保と脱炭素技術の両面で、国際協力・協調を進めるとともに熾烈な競争を繰り広げています。
また、本編においては、これまで述べてきた注目すべき地政学的動向を踏まえ、企業が負うリスクと今後の対応の在り方についても解説します。
2021年秋のCOP26前後に、中国やインドも含む各主要国は相次いで炭素中立の目標を打ち出し、技術の開発・実装及び関連市場の創出と獲得を重点政策とする動きを継続しています。特にEUは、気候変動への対応を政治的求心力と経済的パワーを確保するための原動力と認識し、欧州の優位性を維持するための市場創出と、そのための国際ルールの樹立を推進しています。
脱化石燃料の機運高まりで長期的に原油需要減が予想されることなどから、中東などの産油国への新規投資は伸び悩み、その国際政治上のパワーは相対的に低下してきました。しかしながら、炭素中立に至るには長い移行期間が必要であり、日本を含むアジアや欧州の諸国は引き続き、産油国との良好な国際関係を維持して、長期にわたり化石燃料の安定的確保を継続する必要があります。
こうした中、ロシアによるウクライナ侵攻に対する西側の制裁に対し、ロシアが欧州へのエネルギー資源輸出制限によって対抗したことが燃料価格の高騰やエネルギー不足の懸念をもたらしました。欧州諸国は、中東やアフリカなどロシア以外からのガス調達を模索しつつ、備蓄の確保や再生可能エネルギー導入の前倒し実施でこれに対処することとしています。日本においても、極東ロシアに持つ資源権益をめぐるロシアからの圧力を踏まえ、節ガスのルール化検討が開始されるなど、エネルギーの安定供給確保に苦慮しています。
エネルギー安定供給のため、石炭火力発電所の再稼働・使用期間延長や原子力発電の活用を打ち出した国もありますが、熱波や山火事・干ばつなどの気象災害も背景に、脱炭素の方針転換や計画後ろ倒しには大きな制約があります。企業にとっても、事業の継続上、エネルギー供給の安定的確保は死活的に重要でありつつも、脱炭素に向けた動き自体は継続することが必要となっています。
一方で、中国やインドなど対ロ制裁に加わらない新興国は、相対的に安くなったロシア産の化石燃料を確保し、新たな対ロ協力関係を構築しつつあります。このことにより、図表6に示すように、西側と新興国間で方針不一致も生まれています。米国がベネズエラとの敵対関係解消に動くなど国際関係の変化も生じており、資源獲得競争の激化に伴う産油国の相対的発言力の増大や国際協力構造の変化にも注意を払う必要があります。
イデオロギー対立が経済に影響を与えるもう一つの分野として、人権問題が挙げられます。先進国における民主主義の後退、権威主義的政治体制を持つ新興国の経済的台頭などを背景に、民主主義対権威主義という対立構造が浮上し、特に米中覇権争いの中で人権問題は大きな争点になっています。
米国は、習近平政権下の中央集権化、中国国内の人権活動家の弾圧、監視社会の構築について対中批判を展開し、さらに、香港の民主派活動家の弾圧や一国二制度の弱体化をめぐり中国に経済制裁を発動しました。また、新疆ウイグル自治区におけるウイグル人の強制労働問題については、綿花やトマト、太陽光パネルなど同自治区生産品の輸入規制を行ってきました。2022年6月施行のウイグル強制労働防止法はこれを強化し、同自治区で製造された製品や指定事業者の製品はすべて強制労働により生産されたものと推定され、米国への輸入を禁止することとしました。アメリカへの対抗策として、中国は、2021年6月施行の反外国制裁法などの下、対中制裁などを理由に中国企業との取引を中断した企業に報復制裁を課すことを可能にしています。こうした一連の制裁及び報復措置に伴い、米中のデカップリングは加速する可能性があります。
さらに米国は、人権を軸とした追加の対中排除措置を検討・推進しています。
1つに、監視カメラなどの自社製品が人権侵害目的で用いられているとされる中国企業の特別指定国民(SDN)指定があります。米国は既に2019年より、人権侵害への関与を理由に複数の中国企業に禁輸措置を適用しています。しかしSDN指定は、米国や第三国の企業と指定企業との取引が事実上すべて禁止されることになる厳しい措置であり、ビジネスにも大きな影響を及ぼすと考えられます。また、米中デカップリングの文脈において中国大手テック企業が対象となった前例はなく、今後SDN指定が実施されれば、米中経済デカップリングが一段と進展することも懸念されています。
もう1つに、監視カメラや顔認証技術など、人権侵害に使用される恐れのある品目の輸出を規制する「輸出管理・人権イニシアティブ」があります。米国は、2021年12月に主催した「民主主義サミット」において同イニシアティブの立ち上げを発表しました。 これに基づき、監視カメラや顔認証技術など、人権侵害に使用される恐れのある品目についての輸出規制を他国と協調実施する可能性があります。
なお、米国ほどではないもののEUも、人権をめぐり中国に厳しい措置を取り始めています。EUは2021年3月に「EUグローバル人権制裁制度」に基づき、新疆ウイグル自治区における人権問題を理由に中国の個人・団体への経済制裁を決定しました。この問題を重く見た欧州議会は、欧州委員会が中国と大筋合意した包括的投資協定(CAI)の批准手続きを凍結し、さらなる対中制裁を求めるなど、EUと中国との間でも人権は争点になっています。各加盟国の政府高官も中国の人権問題に対し頻繁に批判を展開するなど対抗姿勢を強めています。
また、欧州委員会は、人権侵害を防止・是正するためのデューデリジェンス実施を企業に求める指令案を本年2月に発表し、今後の採択と加盟国での法制化をめざしています。この指令案が成立し、加盟国での法制化が進めば、EUで活動する外国企業やEU企業と継続的ビジネス関係を持つ外国企業も、人権侵害防止取組を実施し、その取組状況を開示する責任を負うことになります。さらに、2022年9月、欧州委員会は、強制労働産品の域内流通を禁止する規則案を発表し、サプライチェーンにおける人権侵害の根絶に向けた対応を強化しています。
同様に日本も、人権問題をめぐり中国を名指しで批判することには慎重ではありつつも、衆議院が人権侵害への懸念決議を採択するなどの動きが出てきています。さらに、政府はサプライチェーン上の人権デューデリジェンス実施を企業に促すガイドラインを2022年9月に策定しました。日本においても、企業もそのバリューチェーン上での人権侵害防止に責任を負い、人権を理由とした国際政治上の争いにも一層の留意が求められることになります。
ここまで、マクロの観点からさまざまな地政学リスクを紹介してきました。では、それぞれの企業としては、経営に地政学の観点をどのように活用し、実際にビジネスにどのように取り入れていけばよいのでしょうか。
企業経営において、地政学の観点は、大きく2つの役割を果たすことから有用であると言えます。1つ目の役割は、足元もしくは近い将来においてリスクとして顕在化し得る事象を特定し、事前もしくは発生時の対応策を検討するための前提を提供する点にあります。そして2つ目は、中長期の世界のトレンドを描き出し、企業戦略そのものを練り直したり、再定義したりするために検討すべき枠組みを提供するという点にあります。もちろんこれまでも、地政学的な要素が外部環境の1つとして認識され、検討されてはきましたが、それが企業のアクションに反映されることは多くありませんでした。ここでは、前述の2つの視点から、企業の取り得るアクションを見ていきます。
まず、足元もしくは近い将来において、リスクとして表出しそうな事象を洗い出すにあたり、地政学の観点は必須となります。これまでも各企業は、不測の事態に備えて事業継続計画を策定するなど、リスクへの備えは進めてきました。一方で、地政学的な動きへの対応は、これまでは必ずしも準備検討はされていませんでした。しかし、2016年のトランプ候補の米大統領選勝利や、英国のブレグジットをめぐる国民投票などを境に、これまでの「政経分離」の前提が崩れ、政治的な動きがビジネス領域に大きな影響を与えるケースが増えてきました。さらに、新型コロナウイルス感染症のパンデミックに起因する世界的な混乱、ロシアのウクライナ侵攻などの事象が、その傾向に一層拍車をかける結果となっています。「明日にも起こるかもしれない」地政学起点のリスクに備えることは、今や不可欠なのです。
ただし、各企業にとって、世界全体の地政学リスクを常にモニタリングすることは現実的ではありませんし、また、その必要もありません。各社にとって、リスクとなる事象やその影響はそれぞれ異なるので、事前に「自社にとって想定されるリスク」を絞り込み、モニタリングするポイントも決めておくことが重要です。
想定されるリスク事象を絞り込むにあたっては、①「事業の態様」と②「事業の展開地域」の2つがカギとなります。①については、例えば、製造業界などでは複雑かつ広範囲にわたるサプライチェーンへの影響が重要となるかもしれません。消費財業界では、消費者からのレピュテーションが重要となるのかもしれません。業界もしくは事業によって、「何に対するリスクを重視するのか」は変わってきます。②については、展開先の地域ということになりますが、資源や原材料の調達先なのか、生産拠点なのか、売り先の市場なのか、は区別して整理する必要があります。また、欧州の一部のルールのように、欧州に何らかの拠点があるだけで、ルールが域外適用されてしまうようなケースもあるので、その点にも注意する必要があります。
上記により、想定されるリスク事象を絞り込み、優先順位を付けることができれば、対応策を検討することができます。この段階では、各事象につき、シナリオ分析の手法を用いることで各事象についてのシナリオパターンを複数設定し、それぞれの対応策を検討することが有用です。シナリオパターンの設定にあたっては、緻密に、かつ網羅的に全パターンをカバーする必要はありませんが、一方で、現時点において蓋然性は低いと想定されたとしても、「極端」なケースも含まれていることが必要です。近年は、ミャンマーにおける軍事クーデターや、ロシアのウクライナ侵攻など、発生の蓋然性が高くないと想定されていた事象が次々と現実化しており、合理性だけでは説明できない事象への事前の備えが重要になっているからです。
各事象におけるシナリオパターンが設定できれば、各パターンが生起した際の対応策の検討に入れます。対応策については、①「現時点から事前に講じておく対応策」、②「発生した場合に講じる対応策」などに分けて整理することが重要となります。また、②においては、「いかなる事象が発生したら、いかなる対応を講じるのか」に加え、誰がその兆候をモニタリングし、誰が何を判断するのかなど、モニタリングや意思決定の体制について固めておくことも、実効性を持たせるためには必要です。
もう1つ、地政学的な視点を持つことで可能になるのが、中長期での企業戦略の練り直しや再定義です。不確実性の高い世界とされる昨今ですが、多くの場合、その不確実性の背景には地政学的な地殻変動があります。しかし、逆の言い方をすると、地政学的な中長期のトレンドを想定することができれば、不確実性に備えることもできるということになります。
現在、これまでのビジネスの大前提でもあった「グローバルな世界」の退潮が進み、国家間の分断が、世界の通商、投資、ESG領域でのルール形成などの領域に影を落としています。分断が今後も進むにしても、二極化なのか多極化なのか、また、影響がどの領域にいかに及ぶのか、さまざまなパターンが考えられます。中長期の世界のシナリオパターンを複数考え、そのなかで、既存の戦略が特定のリスク事象に大きく晒されるようであれば、戦略自体を再考することが必要となるでしょう。
より重要なのは、上記の事柄を検討することは、各企業に対して「リスクがどこにあるのか」にとどまらず、「機会がどこにあるのか」などの示唆をもたらすことにつながります。将来の視点から逆算し、リスクと機会を両にらみしつつ、既存の戦略を練り直し、再定義するための前提となる枠組みを、地政学的な中長期のトレンド分析は提供するのです。
ここまで、ビジネスにおいて地政学が果たす役割について見てきました。地政学と言うと、リスクについて想起されることが多いのですが、実際は足元もしくは近い将来のリスク事象を特定し、事前もしくは発生時の対応策を検討するための前提を提供するという役割も果たします。しかし前述のとおり、中長期な時間軸の中で広く検討することで、機会も含む戦略的な視点も得ることができるのが地政学です。企業経営においても、地政学の視点を活用し、単なる外部環境やリスクへの対応から、経営アジェンダの中心に捉えなおすことが有用です。
あるクライアント企業では、経営陣を筆頭に、地政学リスクの重要性とそれに対する対応の必要性への認識が高まっていました。一方で、そもそもどの事象をリスクとして留意しておくべきか、必ずしも明らかにはなっていませんでした。
※:複数企業へのご支援事例をベースにしたもので、特定企業への個別のご支援内容を公にするものではありません。
これまでの前中後編を通じ、ウクライナ情勢を踏まえた最新の国際情勢トレンド、今後1年程度の期間で注視すべき10大地政学リスク、企業対応のあり方について解説し、PwCの具体的な支援についてご紹介しました。次回は、PwC Japanグループが2022年8月に実施した最新サーベイ「地政学リスクに関する日本企業の対応実態調査2022」の結果から、企業がどのように地政学リスクを捉え、対応しているのか、その実態について解説します。
「調査編」では、PwC Japanグループが2019年、2020年に続いて2022年8月に実施した「企業の地政学リスク対応実態調査2022」の結果について解説します。大きな地政学的イベントを経験した日本企業は今、何を脅威と感じ、どのような対応を行っているのでしょうか。
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