M&A件数の増加とともに、買収時に人事デューデリジェンスを実施するケースが増えています。
しかしながら、「人事デューデリジェンスは何を目的とし、具体的にどういうことを調査していくのか」と聞かれてすぐに回答できる人は多くありません。その理由として、人事デューデリジェンスにおける調査対象の範囲が広範であることに加えて、ディールストラクチャーや対象会社の状況などによっても調査する範囲や深度が異なってくることが挙げられます。
本コラムでは、一般的な人事デューデリジェンスの調査項目を紹介したうえで、実際のケースを例に、どのような観点から、どういったポイントに注目しながら人事デューデリジェンスを実施しているのかを解説します。
下表のとおり、人事デューデリジェンスの調査は、組織体制や人員構成の分析から人事制度、退職金制度、労務コンプライアンス、人事オペレーション、組織風土などの把握および分析まで、非常に多岐にわたっています。
また、通常は人事デューデリジェンスの枠内に入れられることが多いものの、⑥退職金制度だけを対象とした「年金デューデリジェンス」や、⑥退職金制度と⑦労使関係を対象とした「労務デューデリジェンス」という形で単体のデューデリジェンスが実施されることもあります。
①組織体制/人員構成 |
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②キーパーソン |
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③役員の処遇 |
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④報酬/福利厚生制度 |
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⑤要員計画/人件費 |
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⑥退職金制度 |
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⑦労使関係 |
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⑧労務コンプライアンス(※) |
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⑨研修/教育 |
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⑩人事オペレーション/人事システム |
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⑪組織風土/企業文化 |
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※ 労務コンプライアンスの調査に関しては法務デューデリジェンスを実施する法務アドバイザー(弁護士)がメインで対応しているケースも少なくないですが、法務アドバイザーと人事アドバイザーは都度その役割を分担しながら労務コンプライアンスの調査に対応しています。
人事デューデリジェンスを実施する際、ほとんどのケースでは上述した全ての項目を調査することになります。しかしながら、実際のディールではクライアントや売り手側の都合でデューデリジェンスの期間が十分に確保できない、売り手側の都合で開示資料が限定的となる、といったことも少なくないため、必要な情報を得るためには効率的にデューデリジェンスを実施しなければなりません。アドバイザーは、こうした状況も踏まえつつ、クライアントが買収を進めるために十分なデューデリジェンスが実施できるように調査項目の精査、資料の依頼、質問の作成などを進めていく必要があります。
以下では、筆者の人事領域におけるM&A支援の経験から、日本企業が買い手となって人事デューデリジェンスを実施する場合に、どこにフォーカスして調査・分析を行ってきたのかについて、3つのケースを基に解説したいと思います。
国内の事業会社同士のディールの場合、多くのケースでは前述したような一般的なスコープに基づいてデューデリジェンスを実施することがほとんどですが、このケースではIM*5で平均年齢が高いことが分かっている対象会社でどのような属性の従業員が働いているのか(スコープ①の観点)、従業員の給与は業界内でどの程度の水準なのか(スコープ④の観点)、また技術者間で特定の技術や知見は継承されているのか(スコープ⑨の観点)にフォーカスをしながら調査しました。そして、さらに買収後のPMI*6の視点から、クライアントであるA社とB社の人事制度の比較分析し、給与制度を統合した場合のコストインパクトの試算などの具体的な分析も実施しました。
*5 IM:Information Memorandum(インフォメーション・メモランダム)の略語。CIM(Confidential Information Memorandum)とも呼ばれる。M&Aにおいて、売却の対象となる企業や事業に関する過年度および将来の業績や財務、従業員などに関する詳細な情報を記載した資料のこと
*6 PMI:Post Merger Integrationの略語。企業の合併・買収(M&A)後の統合プロセス全体を指す用語
それ以外の重要なポイントとしては、買収後の経営陣をどうするかという観点から、役員を含むキーパーソンの評価結果や学歴・職歴などの詳細、さらには現在の報酬水準やストックオプションなどのインセンティブの保有状況、買収後の退職の意向、リテンションプランの有無などの把握ということが挙げられるでしょう。日本では会社が役員CIC/CoCなどの特別な条項を含む委任契約を締結している事例はまれですが、買収時点での役員の適性を可能な限り把握しておくことは重要です。
また、近時はDE&I*7の観点から、女性や外国籍の従業員の管理職比率などの割合を把握したうえで、買収後の方向性もあらかじめ検討しておく必要性も高まっています。
*7 DE&I:Diversity Equity and Inclusion。「Diversity(多様性)」「Equity(公平性)」と「Inclusion(包括性)」の略語。
カーブアウトで特定の事業を買収する場合、その事業を「会社分割」で買収するのか、「資産譲渡」で買収するのかによってデューデリジェンスのスコープが大きく変わってきます。
このケースでは、労働契約承継法が適用されることになるため、買収対象事業に従事する従業員と個別に新たな労働契約を締結する必要はなく、労働契約承継法の所定の手続きを実施するだけで従業員を移管させることができます。
しかしながら、従業員の移管とともに従業員に関係する債務も引き継ぐことになるため、未払い残業代の有無(未払いがある場合はその金額規模)や退職給付債務の積み立て不足の有無(およびその金額規模)など買収金額に直接影響するような人事労務上の問題の有無はしっかりと把握しておきたいところです。
本ケースでは、デューデリジェンスを進めていく中でスコープ⑧の労務コンプライアンスの観点から注意すべき項目がありました。具体的には、D事業に従事する従業員について、作業着への着替え時間が労働時間に含まれておらず、残業時間も15分未満は切り捨て処理がされている状況が判明したため、クライアントであるC社が将来支払うことになる可能性がある未払い債務を定量化したうえで買収金額の交渉材料として活用しました。
カーブアウトでの買収の場合、上記以外では調達や法務、経理・財務、人事・総務などのコーポレート機能をどうするかが一番の課題となります(スコープ⑩の観点)。買収後に売り手側からどの程度の期間、どのような機能を継続して提供してもらう必要があるのか、買い手側でそうしたコーポレート機能を充足するために必要な時間とコストはどのくらいになるかの目安をデューデリジェンスで調査・分析しておく必要があります。特に人事機能については、売り手側で使用している人事関連のシステムやアウトソースを含めた人事オペレーションの全体像を把握したうえで、どのタイミングで買い手側でのオペレーションが可能となるかについて確認しておくことが重要です。
さらに、健康保険組合や退職給付制度などの売り手独自の制度をカーブアウトによって引き継ぐことができない場合は、買収後の対応策についてもDay1*8を見据えてデューデリジェンスの段階であらかじめ検討しておく必要があります。
*8 Day1:買収後、新体制がスタートする第1日目のこと。クライアントとアドバイザーは、この日を目標に従業員の転籍やオペレーションの移管などの対応を行う
なお、「会社分割」ではなく「事業譲渡」での買収となった場合は、対象事業に従事する従業員のうち、買収後の事業運営に欠かせないキーパーソンを最優先で把握したうえで、転籍の同意を取り付ける必要があります。
その前提として、対象会社と受入れ先となるクライアント企業の人事制度を詳細に比較分析し、転籍対象となる従業員一人ひとりに対しての転籍パッケージ(業務内容、役職、基本給、賞与、インセンティブ、福利厚生などの労働条件および処遇)を用意することになります。
海外の事業会社を買収する場合、対象会社の既存のマネジメントチームに継続して経営責任を担ってもらいたいと考えているケースがほとんどです。そのため、デューデリジェンスの段階からマネジメントチームのアセスメントや既存の報酬制度(株式報酬やストックオプションなどのインセンティブを含む)、リテンションプラン、CIC条項(ゴールデンパラシュートなど)の有無にフォーカスした調査・分析は必須となります。
もちろん、エンジニア、品質保証、セールスなどマネジメント以外にもキーパーソンがいる場合があるため、デューデリジェンスでは彼らの雇用契約書の内容や報酬水準なども分析しておきたいところです。
加えて、対象会社が所在する国の労働法の遵守状況やその国特有の福利厚生制度、退職給付制度、雇用慣行(中国での「経済補償金」の支払いなど)についてもしっかりと把握しておく必要があります。
本ケースでは、対象会社は上場しておらず、収益も赤字続きというような状況だったこともあって、役員や従業員に対して賞与を支払う代わりにストックオプションを付与し、上場した際に多額の報酬が受け取れるような待遇となっていました(スコープ②③④の観点)。
こうした場合、買収によって上場の可能性が無くなるとストックオプションをあてにしていた役員と従業員のリテンションにマイナスの影響が及ぶ可能性があります。そのため、デューデリジェンスの際に買収金額をベースとしながら1ストックオプションあたりの価値を算定し、買収成立時に役員および従業員のストックオプションを消滅させる代わりに対価として現金報酬を支払うという措置を講じるとともに、リテンションプランの1つとして業績連動型の賞与を導入するという対応を行いました。
以上のように、ひと口に「人事デューデリジェンス」といってもケースによって重点的に調査・分析するポイントは異なってくるため、買い手の意向はもちろんのこと、対象会社の状況、ディールストラクチャー、さらには売り手側の状況なども踏まえたうえで、効率的なデューデリジェンスの実施に向けた準備が肝要となります。
PwCでは、クロスボーダーの案件も含めて人事デューデリジェンスの実施や買収後のPMIにおいて豊富な実績を有しており、クライアントのM&A戦略の立案と実行を人事労務面から強力に支援することができると自負しております。
M&Aを検討する際はぜひ一度ご相談いただければ幸いです。