人事の視点から見るM&A―人事デューデリジェンスの勘所―

  • 2023-10-31

M&A件数の増加とともに、買収時に人事デューデリジェンスを実施するケースが増えています。

しかしながら、「人事デューデリジェンスは何を目的とし、具体的にどういうことを調査していくのか」と聞かれてすぐに回答できる人は多くありません。その理由として、人事デューデリジェンスにおける調査対象の範囲が広範であることに加えて、ディールストラクチャーや対象会社の状況などによっても調査する範囲や深度が異なってくることが挙げられます。

本コラムでは、一般的な人事デューデリジェンスの調査項目を紹介したうえで、実際のケースを例に、どのような観点から、どういったポイントに注目しながら人事デューデリジェンスを実施しているのかを解説します。

人事デューデリジェンスの一般的な調査項目(例)

下表のとおり、人事デューデリジェンスの調査は、組織体制や人員構成の分析から人事制度、退職金制度、労務コンプライアンス、人事オペレーション、組織風土などの把握および分析まで、非常に多岐にわたっています。

また、通常は人事デューデリジェンスの枠内に入れられることが多いものの、⑥退職金制度だけを対象とした「年金デューデリジェンス」や、⑥退職金制度と⑦労使関係を対象とした「労務デューデリジェンス」という形で単体のデューデリジェンスが実施されることもあります。

①組織体制/人員構成
  • 組織体制やその人員構成を所属部門、役職、年齢、性別、雇用形態などの観点から分析
  • 受入または送出出向者の有無と、その所属部門および役割を把握
  • 部門別の退職率、休職状況、昇給率などについて把握
②キーパーソン
  • キーパーソンとなる従業員情報を把握したうえで、当該従業員に対して現在提供されているリテンションプログラム、リテンションのさらなる必要性、退職リスクについて、売り手側から提供された情報に基づき分析
③役員の処遇
  • マネジメントチーム(取締役のほか執行役員を含む)の状況について把握
  • 役員に関する規程および委任・雇用契約書を分析し、役員に提供される報酬、インセンティブ、株式報酬、退職慰労金、福利厚生、CIC/CoC*1条項の有無などを把握

    *1 CIC/CoC:Change in Control / Change of Controlの略語。委任契約書や雇用契約書において、買収など経営権の移動が生じた際に何らかの特別の取り扱いや手当などが発生することが定められている特別条項のこと
④報酬/福利厚生制度
  • 従業員に提供している報酬制度および福利厚生制度(健康保険含む)の概要を把握
  • 役職別の賃金水準がマーケット水準と乖離しているか否かについて確認
  • ストックオプションなどのインセンティブプランの有無を把握し、取引成立時の対応策やコストインパクトなどを分析
⑤要員計画/人件費
  • 事業計画上の要員数について、退職率や採用状況などを踏まえて実現可能性を分析
  • 報酬水準などの分析を踏まえ、適正な人件費水準を分析
  • 労働生産性や労働分配率について分析
⑥退職金制度
  • 従業員に提供している退職金制度の概要を把握
  • 確定給付型の退職金制度が存在する場合、B/S*2とP/L*3に重大なインパクトをもたらす事象の有無を把握し、未積立債務に関する価格調整の方法について確認

    *2 B/S:Balance sheet(貸借対照表)の略語。財務諸表の1つであり、企業のある一定の時点における資産、負債、純資産の状態を表すもの
    *3 P/L:Profit and Loss Statement(損益計算書)の略語。企業のある一定期間における収益と費用の状態を表すための財務諸表の1つである
⑦労使関係
  • 労働組合の概要を把握
  • 本件に影響を及ぼしかねない労使間の協定(労働協約、協定など)について把握
  • 希望退職を含めた過去の人員調整施策、同施策に関連する財務リスクおよびその影響について把握
  • 従業員等との過去から現在に至るまでの訴訟の有無を把握
⑧労務コンプライアンス(※)
  • 管理監督者性の確認のため、管理職と一般社員の賃金水準に逆転現象が生じていないかを確認
  • 労働時間を確認し、未払い債務(賃金・時間外手当など)の有無について分析
  • 労働時間、裁量労働制、労働安全衛生状況などに関する労働関連法規および各種規制の遵守状況を把握
⑨研修/教育
  • 従業員に提供されている教育・研修内容が事業に即した内容となっているか、一般的な研修体系と比べて十分な制度が提供されているかを確認
  • 対象会社の事業特性から必要な技術や知見が適切に継承されているかを確認
⑩人事オペレーション/人事システム
  • 対象会社の利用している人事システムや人事オペレーション体制について把握
  • グループ会社や外部ベンダーからシステムや人員の提供を受けている場合には、契約関係や取引成立後の扱いについて確認
  • スタンドアロンイシューの把握と対応策の検討支援
⑪組織風土/企業文化
  • 従業員満足度調査やeNPS*4などの調査結果を基に対象会社の組織風土を分析し、対象会社の強み・弱みや取引成立後のリテンションリスクなどを把握

    *4 eNPS:Employee Net Promoter Scoreの略語。従業員の職場への意識を把握できる指標のこと

※ 労務コンプライアンスの調査に関しては法務デューデリジェンスを実施する法務アドバイザー(弁護士)がメインで対応しているケースも少なくないですが、法務アドバイザーと人事アドバイザーは都度その役割を分担しながら労務コンプライアンスの調査に対応しています。

人事デューデリジェンスを実施する際、ほとんどのケースでは上述した全ての項目を調査することになります。しかしながら、実際のディールではクライアントや売り手側の都合でデューデリジェンスの期間が十分に確保できない、売り手側の都合で開示資料が限定的となる、といったことも少なくないため、必要な情報を得るためには効率的にデューデリジェンスを実施しなければなりません。アドバイザーは、こうした状況も踏まえつつ、クライアントが買収を進めるために十分なデューデリジェンスが実施できるように調査項目の精査、資料の依頼、質問の作成などを進めていく必要があります。

以下では、筆者の人事領域におけるM&A支援の経験から、日本企業が買い手となって人事デューデリジェンスを実施する場合に、どこにフォーカスして調査・分析を行ってきたのかについて、3つのケースを基に解説したいと思います。

【ケース1】関連事業を営む国内メーカーを買収するケース

A社が、関連事業を営むB社の株式を買収し、B社の製造子会社も含めてそのままA社の子会社とするストラクチャー

ケース 1

国内の事業会社同士のディールの場合、多くのケースでは前述したような一般的なスコープに基づいてデューデリジェンスを実施することがほとんどですが、このケースではIM*5で平均年齢が高いことが分かっている対象会社でどのような属性の従業員が働いているのか(スコープ①の観点)、従業員の給与は業界内でどの程度の水準なのか(スコープ④の観点)、また技術者間で特定の技術や知見は継承されているのか(スコープ⑨の観点)にフォーカスをしながら調査しました。そして、さらに買収後のPMI*6の視点から、クライアントであるA社とB社の人事制度の比較分析し、給与制度を統合した場合のコストインパクトの試算などの具体的な分析も実施しました。

*5 IM:Information Memorandum(インフォメーション・メモランダム)の略語。CIM(Confidential Information Memorandum)とも呼ばれる。M&Aにおいて、売却の対象となる企業や事業に関する過年度および将来の業績や財務、従業員などに関する詳細な情報を記載した資料のこと
*6 PMI:Post Merger Integrationの略語。企業の合併・買収(M&A)後の統合プロセス全体を指す用語

それ以外の重要なポイントとしては、買収後の経営陣をどうするかという観点から、役員を含むキーパーソンの評価結果や学歴・職歴などの詳細、さらには現在の報酬水準やストックオプションなどのインセンティブの保有状況、買収後の退職の意向、リテンションプランの有無などの把握ということが挙げられるでしょう。日本では会社が役員CIC/CoCなどの特別な条項を含む委任契約を締結している事例はまれですが、買収時点での役員の適性を可能な限り把握しておくことは重要です。

また、近時はDE&I*7の観点から、女性や外国籍の従業員の管理職比率などの割合を把握したうえで、買収後の方向性もあらかじめ検討しておく必要性も高まっています。

*7 DE&I:Diversity Equity and Inclusion。「Diversity(多様性)」「Equity(公平性)」と「Inclusion(包括性)」の略語。

【ケース2】日系企業から特定事業をカーブアウトで買収するケース

C社がE社からD事業をカーブアウトで買収するケース。売り手であるE社が新会社であるF社を設立したうえで、そこにD事業を会社分割で移管し、F社の株式をC社に譲渡するストラクチャー

ケース 2

カーブアウトで特定の事業を買収する場合、その事業を「会社分割」で買収するのか、「資産譲渡」で買収するのかによってデューデリジェンスのスコープが大きく変わってきます。

このケースでは、労働契約承継法が適用されることになるため、買収対象事業に従事する従業員と個別に新たな労働契約を締結する必要はなく、労働契約承継法の所定の手続きを実施するだけで従業員を移管させることができます。

しかしながら、従業員の移管とともに従業員に関係する債務も引き継ぐことになるため、未払い残業代の有無(未払いがある場合はその金額規模)や退職給付債務の積み立て不足の有無(およびその金額規模)など買収金額に直接影響するような人事労務上の問題の有無はしっかりと把握しておきたいところです。

本ケースでは、デューデリジェンスを進めていく中でスコープ⑧の労務コンプライアンスの観点から注意すべき項目がありました。具体的には、D事業に従事する従業員について、作業着への着替え時間が労働時間に含まれておらず、残業時間も15分未満は切り捨て処理がされている状況が判明したため、クライアントであるC社が将来支払うことになる可能性がある未払い債務を定量化したうえで買収金額の交渉材料として活用しました。

カーブアウトでの買収の場合、上記以外では調達や法務、経理・財務、人事・総務などのコーポレート機能をどうするかが一番の課題となります(スコープ⑩の観点)。買収後に売り手側からどの程度の期間、どのような機能を継続して提供してもらう必要があるのか、買い手側でそうしたコーポレート機能を充足するために必要な時間とコストはどのくらいになるかの目安をデューデリジェンスで調査・分析しておく必要があります。特に人事機能については、売り手側で使用している人事関連のシステムやアウトソースを含めた人事オペレーションの全体像を把握したうえで、どのタイミングで買い手側でのオペレーションが可能となるかについて確認しておくことが重要です。

さらに、健康保険組合や退職給付制度などの売り手独自の制度をカーブアウトによって引き継ぐことができない場合は、買収後の対応策についてもDay1*8を見据えてデューデリジェンスの段階であらかじめ検討しておく必要があります。

*8 Day1:買収後、新体制がスタートする第1日目のこと。クライアントとアドバイザーは、この日を目標に従業員の転籍やオペレーションの移管などの対応を行う

なお、「会社分割」ではなく「事業譲渡」での買収となった場合は、対象事業に従事する従業員のうち、買収後の事業運営に欠かせないキーパーソンを最優先で把握したうえで、転籍の同意を取り付ける必要があります。

その前提として、対象会社と受入れ先となるクライアント企業の人事制度を詳細に比較分析し、転籍対象となる従業員一人ひとりに対しての転籍パッケージ(業務内容、役職、基本給、賞与、インセンティブ、福利厚生などの労働条件および処遇)を用意することになります。

【ケース3】海外のベンチャー企業を買収するケース

G社が自社のサービスに不可欠な技術を有する海外のベンチャー企業H社の株式をプライベート・エクイティ・ファンドのI社から買収するストラクチャー

ケース 3

海外の事業会社を買収する場合、対象会社の既存のマネジメントチームに継続して経営責任を担ってもらいたいと考えているケースがほとんどです。そのため、デューデリジェンスの段階からマネジメントチームのアセスメントや既存の報酬制度(株式報酬やストックオプションなどのインセンティブを含む)、リテンションプラン、CIC条項(ゴールデンパラシュートなど)の有無にフォーカスした調査・分析は必須となります。

もちろん、エンジニア、品質保証、セールスなどマネジメント以外にもキーパーソンがいる場合があるため、デューデリジェンスでは彼らの雇用契約書の内容や報酬水準なども分析しておきたいところです。

加えて、対象会社が所在する国の労働法の遵守状況やその国特有の福利厚生制度、退職給付制度、雇用慣行(中国での「経済補償金」の支払いなど)についてもしっかりと把握しておく必要があります。

本ケースでは、対象会社は上場しておらず、収益も赤字続きというような状況だったこともあって、役員や従業員に対して賞与を支払う代わりにストックオプションを付与し、上場した際に多額の報酬が受け取れるような待遇となっていました(スコープ②③④の観点)。

こうした場合、買収によって上場の可能性が無くなるとストックオプションをあてにしていた役員と従業員のリテンションにマイナスの影響が及ぶ可能性があります。そのため、デューデリジェンスの際に買収金額をベースとしながら1ストックオプションあたりの価値を算定し、買収成立時に役員および従業員のストックオプションを消滅させる代わりに対価として現金報酬を支払うという措置を講じるとともに、リテンションプランの1つとして業績連動型の賞与を導入するという対応を行いました。

以上のように、ひと口に「人事デューデリジェンス」といってもケースによって重点的に調査・分析するポイントは異なってくるため、買い手の意向はもちろんのこと、対象会社の状況、ディールストラクチャー、さらには売り手側の状況なども踏まえたうえで、効率的なデューデリジェンスの実施に向けた準備が肝要となります。

PwCでは、クロスボーダーの案件も含めて人事デューデリジェンスの実施や買収後のPMIにおいて豊富な実績を有しており、クライアントのM&A戦略の立案と実行を人事労務面から強力に支援することができると自負しております。

M&Aを検討する際はぜひ一度ご相談いただければ幸いです。

執筆者

田中 建太朗

ディレクター, PwCコンサルティング合同会社

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