地政学リスクの潮流と経済安全保障に関する主要国の重要政策【前編】

2021-11-30

2021年に入り、各国首脳による国際会議の議題や国別の重要政策において「経済安全保障」が頻繁に取りざたされています。日本でも、2021年10月に発足した岸田内閣が経済安全保障を重要政策の1つに掲げ、経済安全保障担当大臣のポストを新設しました。新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の拡大がようやく踊り場に来ているこのタイミングで、なぜ「地政学リスク」「経済安全保障」が注目を集めているのでしょうか。

本稿では、近年、経営戦略上の対応すべき重要リスクとして急速に存在感が高まる地政学リスクおよび経済安全保障について、背景にある大きな潮流とその流れを汲んだ主要国の優先アジェンダを紹介し、各企業が今後検討すべき視点に関する示唆を提供します。

地政学リスク台頭に伴うグローバルの潮流

2016年は、グローバル事業を展開する企業経営者のマインドに「地政学リスク」が重要なアジェンダとして急激に浮上した年となりました。その契機となったのは、6月に行われた英国国民選挙によって決定された英国のEU離脱と、同年11月の米国大統領選挙におけるドナルド・トランプ氏の米国第45代大統領選出です。ここから、企業の外部環境分析における不確定要素が激しく増大し、企業経営の先行きの不透明感が飛躍的に高まりました。

英国のEU離脱では、初となる加盟国離脱に伴う手続きの混乱や度重なる交渉期限の延長により、欧州事業を展開する企業は秩序なき離脱へのオペレーション上の備えに加えて、EUおよび英国の新たなあり方を踏まえた欧州事業全体の戦略見直しや法務・税制、人事対応などに追われました。

米国トランプ前政権では、対中貿易赤字の解消に向けて、2018年3月に中国製鉄鋼製品に対して関税を賦課したことを発端とし、米中双方が段階的に報復関税を導入する米中貿易摩擦が展開されました。これに伴い、米国内の事業環境の変化のみならず、中国大手通信企業関連を中心に、既存取引先が突如として取引禁止対象となるリスクが生じました。多くの日本企業が、その他地域を含むグローバル事業全体に関して緊急のサプライチェーン実態調査や代替策特定などを迫られたことは記憶に新しいでしょう。

このような厳しいリスク環境にさらなる衝撃をもたらしたのが、2020年に世界的な感染爆発を起こし、今も猛威を振るうCOVID-19です。極めて短期間に、世界のあらゆる国、社会、企業、個人が1つの共通の脅威を経験し、それまでの価値観や生活様式、国家・事業運営の変更を迫られました。

人類共通の保健衛生上の危機に立ち向かうなかで、各国の地政学的駆け引きやそれに伴う地政学的緊張は、保留状態とも呼べる一時的な緩和を経験しました。しかし、当初の混乱が落ち着き、各国が足元でのコロナ禍への対策と中長期的な経済回復を模索するにつれ、破壊的な変化を経てこれまでとは流れが変わった部分と、顕在化の加速や影響の増大はあるものの基本的な方向性は変わらず、継続した対処が必要な部分とが混在する姿が見えてきました。

以下に、コロナ禍を経た地政学リスクを理解するうえで重要な3つのパラダイムシフトを紹介します。

図表1 地政学リスクの背景となる重要な3つのパラダイムシフトの視点

1. グローバルな協調から自国第一主義、ローカライゼーションへ

まず、コロナ禍によりそれまでの趨勢に大きなブレーキがかかったのが、グローバリゼーションの流れです。コロナ禍以前にも、先に挙げたようなさまざまな貿易障壁を用いた対立の深化や、ナショナリズムを伴うポピュリズムの台頭が進んではいました。しかし総体的に見れば、冷戦後の世界はグローバリゼーションと自由貿易を前提として発展を遂げ、その流れの中で各国がいかに効率的に自国に富をもたらし成長するかを競っていました。

コロナ禍の発生は、中国経済のほぼ完全な閉鎖に伴う大規模なグローバルサプライチェーンの分断や、自国経済の基礎的なニーズを満たす戦略的物資の絶対的な不足といった問題を突き付けました。経済および国家安全保障の脆弱性に突如気づかされた各国は、短期的にはマスクや個人用防護具、ワクチンの囲い込みに動きました。中長期的には、一時的なコスト増や効率悪化にかかわらず、サプライチェーンの柔軟性確保やローカライゼーションに取り組む国・地域や企業が増えました。

これにより、少なくとも当面の間は、業種や対象品目、地域によってさまざまな制約やリスク要因が点在し続けるでしょう。企業においては、今まで以上に主体的に情報収集を行い、対応優先度の判断ができるよう地政学的インテリジェンスを高めることが求められます。

2. 欧州(EU)の「戦略的自律」に伴う米中欧3極間の緊張関係と経済安全保障の重要性の高まり

これに対して、コロナ禍以前からの流れが一層強化された分野として、米中欧(EU)の3極間の緊張関係の高まりがあります。

米中間の緊張関係は、トランプ前政権下で悪化の一途をたどりました。査証の停止・制限・無効化や制裁発動による「ヒト」の流れの制約、関税措置やエンティティリストによる取引抑制を通じた「モノ」の流れの制約、対米外国投資委員会(CFIUS)の権限強化や軍事産業関連企業への証券投資の禁止、中国外商投資法制定などを通じた「カネ」の流れの制約などが、半導体や5Gなどの戦略的重点分野を中心に実行されました。これは、経済的・軍事的に台頭してきた中国との覇権争いであり、今後も緊張関係が継続することは確実です。

実際、2021年1月に発足した米国バイデン政権下でも、前政権での「ヒト・モノ・カネ」の対立に「情報・データ」分野が加わりました。米国による米国市場上場審査厳格化や中国による中国企業の海外上場手続き厳格化、中国データセキュリティ法・個人情報保護法制定などを通じて、情報管理・隔離を強化する動きが高まりました。また、人権問題についても、コロナ禍を経て社会全体の課題意識が一層高まったことを背景に、米国議会がウイグル強制労働防止法案を成立させ、強制労働疑義に伴う禁輸措置を執行しました。純粋な人道的動機に加えて、国家間競争の争点とされる形で対立が拡大しています。

こうしたなか、第3極としての欧州は、2016年にEUグローバル安全保障戦略を発表し、米中間でバランスをとりながら「戦略的自律」の実現を模索してきました。対中では、「一帯一路」を通じてEU域内へも影響力を強めつつある中国に警戒を強め、機会と脅威のバランスを見極めようとしています。米国に対しては、中国の大手通信企業への制裁方針での不一致、ITプラットフォーマー企業に対するデジタルサービス税やバイデン政権誕生直前の中国との包括投資協定の大筋合意など、かつての強固な欧米連携とは異なる距離感を模索しています。

すなわち、米中欧3極間の緊張関係は、伝統的な軍事・防衛力にとどまらず、経済力や、長期的な国力を左右する先端技術・機微情報をも介した様相を呈しているのです。各国が、経済的な手法を用いて戦略的目標を達成しようとする「エコノミック・ステイトクラフト」を用いて競争しています。結果、安全保障は広く「経済安全保障」の課題となり、企業にとっても看過できない重要なインパクトを持つ経営アジェンダとして認識されるようになりました。

3. 株主資本主義からステークホルダー資本主義へ

コロナ禍を経た地政学リスクの動向に大きな影響を及ぼす3つ目の潮流が、株主資本主義からステークホルダー資本主義へのシフトです。ステークホルダー資本主義とは、企業に影響する全てのステークホルダー(利害関係者)との関係を重視し、企業活動を通してこれらステークホルダーへの貢献を目指す長期的な企業経営のあり方を示しています。

ステークホルダー資本主義は、2019年8月、これまで株主資本主義を標榜していた米経営団体ビジネス・ラウンドテーブルが、支持に回ったことで注目されました。コロナ禍を機に、感染症や気候変動など、世界が協働して取り組むべき課題を抱えているとの意識が高まりました。これに伴いESG(環境、社会、ガバナンス)に関する企業への社会的要請が強まったことで、ステークホルダー資本主義への転換が加速しています。

このことが、道義的・倫理的責任への国家および企業のコミットメントを高める一方で、地政学的観点からは、この機運に乗る形で、国境炭素税、一般データ保護規則(GDPR)、循環型経済(サーキュラーエコノミー)に向けた各種対応基準や規制など、自国に有利なルールを形成しようとする各国政府の動きが活発化していることが特筆できます。企業としては、自社を取り巻く規制や競争環境の前提が不安定化し、リスクが増大していることに注目する必要があります。

中編・後編では、こうした大きな潮流があるなかで、主要国がどのような方向性を打ち出し、どのような政策アジェンダを重視しているかについて見ていきましょう。

執筆者

ピヴェット 久美子

ディレクター, PwC Japan合同会社

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