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2020-09-23
人工知能(AI)技術の進化が著しい昨今、人間に取って代わる職業といった、不安を生じさせる部分だけがクローズアップされがちです。でも、そんなAIでも人間にどれだけ近付けているかというと、自己認識という点だけを取ってみても、人間の能力とは程遠いと言える段階にしか達していません。自分の身の回りで生じる事象ではなく、自分の内面で生じる意識や感覚を認識し、自分とは何たるかを考える……。「自分探し」とも言われるこの能力は、人間の脳がもたらす産物と言えます。この脳をめぐって、メカニズムの解明や新たなビジネスの創出が進んでいます。脳科学の水準がどの程度まで来ているのかを見てみると共に、それが私たちの暮らしをどのように変え得るのかを考えてみましょう。
古くから「私とは何か?」「思考とは?」「意識とは?」「自我とは?」「無意識とは?」といった問いに、多くの哲学者や研究者が解を見出そうとしてきました。これら古典的な問いに対して、脳科学の見地から解明に挑もうと、各国がこの30年にわたって研究を活発化させています。米国では1990年からの10年を「脳の10年」と呼び、また欧州や日本では2000年ごろからそれぞれ大規模な国家主導の脳の研究開発プロジェクトを進めてきました*1。さらに2010年代からは、米国、欧州、日本において再度の大規模プロジェクトが進められ、並行して中国や韓国などでも脳科学研究が大規模に進められることになり、「思考」や「意識」のメカニズムの解明に向けて、脳科学が新たな境地を開きつつあります*2 *3。
これらの研究成果は既に広く世界中に発信されています。例えば、「前頭葉は認知機能と関係が深く、認知症になると記憶を司る海馬が萎縮するらしい」ということを知っている方は多くいらっしゃるのではないでしょうか。もう少し詳しい人になると、衝動的に物を買ってしまう時には、報酬を感じて線条体という脳部位が無意識的に反応するということも知っているかもしれません。また「ドーパミン」と聞くと、脳の中で興奮が伝わっていくイメージを、「セロトニン」と聞けば、リラックスする効果のあるものかな、というイメージをぱっと浮かべるのではないでしょうか。こうした脳内の化学物質である神経伝達物質がどのような働きを持っているのかが電気生理学や分子遺伝学といった学問領域で分かるようになっており、その性質も広く認知されるに至っています。これらが明らかになることで、うつ病や統合失調症、さらには認知症の原因の解明ならびに薬などの開発にもつながっています*4。
このように、これまで概念的にのみ捉えられてきた「思考」や「意識」のプロセスが、関与する脳部位、さらには無意識的な処理過程や伝達物質の解明などによって、徐々に見える化されてきています。ただ、こうした発見は脳のメカニズムのうちのほんの一部です。「意識がどのように生まれるのか?」「自由意思を発揮する自我は本当に存在するのか?」といったさらなる難しい問いに対しての答えについては、今なお喧々諤々の議論が続いています。
脳科学を取り巻く環境は今、大きく変わろうとしています。これまでこの分野をけん引してきたのは、最先端の研究に携わる脳科学者と、製薬分野でビジネスを手掛ける企業が中心でしたが、異業種の民間企業が参画する産官学連携活動の拡大によって、研究がますます活発化しています。
例えば、薬に代わる治療法として期待される脳深部刺激療法(Deep Brain Stimulation、以下 DBS)と呼ばれるものがあります。なじみのない方が多いかもしれませんが、これは脳の中に電極を埋め込み、電気による刺激を与えることで病気を治そうとするものです。心臓のペースメーカーのように、脳機能を機械によって調節できる技術になり得ます。
さらにこのDBSを革新的に進化させたものとして、BMIニューロフィードバックと呼ばれる技術があります。ニューロフィードバックは、リアルタイムで自らの脳の状態をモニタリングしながら、よりよい脳状態をキープできるように促し、結果としてストレス低減や病気の予防を実現するものです*5。頭の中に電極を埋め込んで電気を流す場面を想像すると、自身で試してみることには躊躇があるかもしれません。しかし自分で自分の脳を気軽に見ながら脳の不調を治せるのであれば、将来的に受け入れられる可能性は十分にあると言えるでしょう。さらなる研究開発が必要な領域ではありますが、製薬業界だけでなく、例えば、電機業界、自動車業界、住宅業界などがオープンに連携することで、脳からの電気信号で運転できる自動車や、言葉にせずとも思った通りに動いてくれる家庭用お手伝いロボットといった、非医療分野における革新的なサービスが生まれる可能性があります。
一方、脳を測ることにも新たな可能性が広がっています。開頭手術をしない限り見ることができなかった脳の状態を、CT(Computed Tomography;コンピューター断層診断装置)やMRI(Magnetic Resonance Imaging;磁気共鳴画像法)といった非侵襲的な脳計測技術を使うことによる見える化が、もはや当たり前になっています。これによって、手術の前に病変の場所を正確に把握することを可能にし、迅速な手術の実施に活用されたり、術後の経過観察に使われたりしているのはご存じの方が多いことと思います。
これに加えて注目したいのが、脳ドックと呼ばれる仕組みです*6。健康診断のオプションとして受診されたことがある方がいらっしゃるかもしれませんが、これは世界で類を見ない日本独自の仕組みであり、健康な状態にも関わらず自分の脳をチェックしてもらえるというものです。MRIの100万人当たりの普及率が世界一であり、また世界でも指折りの健康意識の高さを持つ日本であればこその社会インフラと言えます。この脳ドックは、脳卒中を未然に防ぐことに加えて、最近では認知症やMCI(Mild Cognitive Impairment;軽度認知障害)などの検査にも使われ始めています。
この世界に類を見ない社会インフラを基盤として、国際標準規格に承認された日本発の脳の健康管理指標も作り出されました。健康な人の脳の状態を数値化するBHQ(Brain Healthcare Quotient;脳健康管理指数)と呼ばれるものです*7。BHQを見ることで、自分の脳が同年代に比べてどれくらい健康なのかが分かります。疲労がたまっていたり、脳に悪い食事をとったりするとBHQが低下します。BHQが低下していると好奇心が下がったり、認知機能が低下したりすることも示唆されています。過去のBHQと現在のものを比べることで、これまでの生活習慣は脳に悪影響がなかったかが分かるようになるでしょう。
この指標は、健康分野における日本のプレゼンスを世界的に高める可能性を秘めています。脳ドックに行くと、脳の健康状態が数字で見られる――。そんな未来が、もうすぐ目の前に来ていると言えます。
過去の文明を見返してみれば、産業を生むきっかけになるのが単位であることが分かります。ワットという仕事量を測る単位ができたことで、エンジンの性能が比較できるようになりました。これによって水を汲み出すポンプの開発が始まり、蒸気船や機関車といった蒸気機関の発明へと進化を遂げ、産業革命につながりました。
クロックは、コンピューターの処理速度を測る単位です。ムーアの法則の通り、企業用の大型コンピューターがパーソナルコンピューターとなり、今では誰もが持つスマートフォンにまで進化を遂げています。
脳の健康についても、いよいよBHQという単位が生まれました。ヘルスケア関連のビジネスは拡大の一途をたどっていますが、BHQによって、脳の健康維持・改善という新たな産業が生まれることが予想されます。人々の脳の状態がデータとして蓄積され、社会の健康増進を目指す研究やビジネスへの活用が進むことでしょう。「彼を知り己を知れば百戦殆からず」という孫子の言葉があります。相手と自分をよく知ることができれば何度戦っても負けることはない、という意味のことわざですが、「彼」とは人間に限りません。健康という観点では、無意識的に抱えているストレスや、それに起因する病なども含まれます。脳の健康状態を通じて自分を正しく知ることで、私たちは、従来はなかなか見えなかった「彼」をより理解することができるでしょう。それをもとに食生活の見直しや運動といった適切な対応を取ることで、いわば「戦わずして勝つ」状態を手に入れる。そんな病気予防の仕方がスタンダードになる日は、そう遠くないのかもしれません。
自分の脳の健康を測るのが当たり前になる未来。脳の健康に役に立つサービスが次々と生まれる未来――。テクノロジーにより、脳をめぐる新たなビジネスの可能性が今、大きく拓けようとしています。
*1:文部科学省, 2008年,「国内外における脳科学研究の現状と問題点について」,(2020年9月4日閲覧)
*2:日本脳科学関連学会連合 将来構想委員会, 2013年,「欧米における脳科学関連大型プロジェクトの動向について」[PDF 730KB]
*3:独立行政法人科学技術振興機構 研究開発戦略センター ライフサイエンスユニット, 2011年, 「脳科学研究の国内および国際動向について」[PDF 945KB]
*4:Principles of neural science. Eds. Vol. 4. New York: McGraw-hill, 2000. Eric R. Kandel, James H. Schwartz, and Thomas M. Jessell.
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