欧州では、EUのサステナビリティ開示規制である「企業サステナビリティ報告指令(Corporate Sustainability Reporting Directive:CSRD)」が2023年1月5日に発効されたことに伴い、企業のサステナビリティ情報の活用に社会の期待は高まっています。サステナビリティアジェンダの中で、英国で特に注目を集めているのがネットゼロをはじめとした企業の脱炭素化への取り組みです。直近では、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の収束に伴うエネルギー需要増とロシアによるウクライナ侵攻に伴う世界的なエネルギー価格高騰を受けて、価格の変動に左右される化石燃料等から脱却し、長期的かつサステナブルなエネルギー確保への関心はさらに高まりを見せています。このような中で、英国政府は2050年までにカーボンニュートラルを達成し、2035年までに電力システムを脱炭素化する方針および施策等を発表し、ネットゼロへの移行に必要な民間投資の費用を負担するなど、さまざまな支援を行っています。
2005年に京都議定書で排出目標が設定され、EU排出量取引制度(EU-ETS)が採用されて以来、この18年間に気候変動が世界的なトップアジェンダになるまでに、社会および関連する制度には変化が起きています。主要先進国で脱炭素規制に関する野心的な目標値が掲げられる中、企業がこれらの規制を逆手に取り、排出権収入などを通じてビジネスを拡大していることにも注目が集まっています。
こうした中、2023年4月18日、欧州議会は、2030年の温室効果ガス削減目標として、1990年比で少なくとも55%の削減を達成するための政策パッケージ「Fit for 55」の主要な法的要件を承認しました。これには、EUETS制度の厳格化や範囲拡大(航空事業および海運事業)や炭素国境調整メカニズム(CBAM)の設置等が含まれています。CBAMは、EUのカーボンリーゲージ(規制の緩いEU域外への製造拠点の移転や域外からの輸入増加)への規制を目的に、EU域内の事業者がCBAM対象製品を域外から輸入する際に、EU-ETS対象企業と同様の課金を義務づける制度です。この改正により、欧州地域で事業を行う日系企業への影響が懸念されており、排出権制度に関連した各種レポーティングの必要性が一層高まっています。
一方で、会計および財務報告面では、政府および民間企業のネットゼロ達成への要求が急速に高まる中、財務諸表に炭素排出量をどのように表示すべきかを概説する国際財務報告基準の設計が追いついておらず、透明性を確保し比較可能な情報開示に対するニーズが高まっています。CSRD発効以降、企業の非財務情報開示に注目が集まっていますが、伝統的な財務報告も引き続き企業の情報開示の中核を担っています。これらの課題を踏まえ、本稿では企業が脱炭素化を図る上での土台となる排出権取引制度において直面する会計面での実務課題等について解説します。なお、本文中の意見に関する部分は、著者の個人的見解であり、PwCあらた有限責任監査法人の見解ではないことを申し添えておきます。
排出量取引制度は世界各国で異なります。EUの制度が世界最大ですが、世界中のさまざまな国でその他の制度があり、国(例えば、米国やカナダ)によっては州や地域で異なる場合もあります。本稿では世界の排出量取引制度のモデルケースになると考えられるEU-ETSを前提に説明します。
排出量取引制度の多くは二酸化炭素の排出量を対象としており、その基本となる目的は、企業がカーボンニュートラルやカーボンネガティブの活動に従事することを奨励し、そのような事業に対する投資を刺激することによって、排出量の削減を促進することにあります。一部の事業が他の事業よりも炭素集約度が高くなることもありますが、他の事業で可能な限り排出量を削減し、別の方法で排出量を相殺する活動を促進することによって、実質的な排出量の削減が可能となります。
排出量取引制度は、一般に、所定の遵守期間の開始時に排出枠が配分され、遵守期間の終了時に排出した量に充てる十分な排出枠を保有していることを企業に求めています。一部の制度では、(無料の排出枠に加えて)追加的な排出枠の購入や、排出量の削減から生じる余剰の排出枠を売却することを企業に認めています。通常、排出枠を超過したり、企業が排出した量の全てを充てるのに十分な排出枠を譲り受けることができなかった場合は、罰則が課されます。
排出量取引制度は以前から存在していましたが、次のいくつかの理由から再び注目されるテーマとなっています。
冒頭でも説明したように、排出量取引制度の会計処理を扱う具体的な会計基準は現在ありません。国際会計基準審議会(IASB)は、EU-ETSの施行に伴い、IFRIC 第3号「排出権」(2005年3月1日発効)を発効しました。IFRIC 第3号では主としてEU-ETSにまつわる会計処理に係る対応が意図されており、企業が政府から受け取る排出枠の無形資産計上や企業が責任を負う排出枠の負債計上等に対するガイダンスが示されましたが、資産および負債評価のミスマッチが財務情報へ与えるネガティブな影響が重要であったことから、発効後2カ月で撤回がなされました。
当該IFRIC第3号の撤回は、排出量取引制度への参加にあたって、IAS第8号「会計方針、会計上の見積りの変更及び誤謬」に基づき会計処理を行う際に利用可能な会計モデルが多く存在することを意味しており、排出量取引制度に関する会計処理で実務上のばらつきが継続して生じています。
IFRIC 第3号のモデルは、政府から割り当てられた排出枠を無形資産として会計処理し、公正価値で当初認識することを要求していました。排出枠が公正価値よりも低い価額で発行される場合、支払額と公正価値との差額は政府補助金として扱われ、IAS第20号に基づいて会計処理されます。この補助金は、財政状態計算書の繰延収益として当初認識され、その後、排出枠が保有されるか売却されるかにかかわらず、発行された排出枠の対象となる遵守期間にわたって均等に、または排出が行われるにつれて先入先出法で、規則的に収益計上されます。負債は、実際の排出量に等しい排出枠を引き渡す義務について認識され、期末日における現在の義務を決済するために必要な支出の最善の見積りにより測定されます(通常、これは期末日までに行われた排出を賄うために必要とされる数の排出枠の市場価格です)。IFRIC 第3号は、2005年6月にIASBにより撤回されましたが、現行のIFRSに対する有効な解釈として実務上利用されています。
しかし、他の会計モデルも許容されており、(図表1)では、EU-ETSをはじめとするキャップアンドトレード方式の排出権取引に関して許容される3つの会計モデルを要約しています。
排出枠資産の貸借対照表上の分類※1
現行の国際会計基準上、排出枠(資産)は無形資産または棚卸資産への計上が考えられます。
キャップアンドトレード方式の排出権取引においては、現金等を対価とした排出枠の譲渡や売買が可能であることから、IAS第38号「無形資産」における「物理的実体のない識別可能な非貨幣性資産」という無形資産の定義を満たすと考えられます。無形資産を認識する場合は、(図表1)の①に示した方法により貸借対照表上に認識・測定を行う必要があります。
排出枠(資産)は、状況によってはIAS第2号における棚卸資産の定義を満たします。例えば、排出取引の仲介業者や取引業者が保有する排出権は、排出権が通常の事業の過程で売却目的で保有される資産であることから棚卸資産の定義に該当すると考えられます。この場合、排出権の測定はIAS第2号に従って取得原価または正味実現可能価額のいずれか低いほうで測定する必要があります(ただし、IAS第2号第3項のコモディティブローカー・トレーダーに関する例外要件を満たす場合、排出権を公正価値で測定することも考えられます)。
企業が排出に係る義務の一部または全部を市場価値で計上する場合、通常、購入が必要となる関連する排出枠の市場価格を用いて引当金を計算する必要があります。一方で、企業が将来の日に固定価格で排出枠を購入する先渡契約を締結している場合には、市場価格ではなく先渡価格で引当金を計上することが容認されると考えられます。これは、この価格が、企業がその義務を決済するために支払うと見込まれる金額の最善の見積りであるためです。
なお、先渡契約は、純額決済または他の金融商品との交換による決済の要件等のデリバティブとして取り扱われる可能性のある先物契約ではあるものの、企業自身の予想される購入、販売または使用の必要に従った非金融商品の受取りまたは引渡しの目的で締結、保有されるものは、IFRS第9号の対象から除外されます。このため、企業が排出枠の先渡契約に関してIFRS第9号の「自己使用の免除」の要件を満たす場合、代替的に先渡価格に基づいて計上することが可能と考えられます。
ただし、企業がこれらの排出枠の売買を開始した場合、IFRS第9号第2.4項の「自己使用の例外」の対象外となるため、先渡契約はIFRS第9号の適用対象となり、公正価値で測定することが要求される点に留意が必要です。この場合においても、ヘッジ会計を適用することにより(要件を満たす場合)ヘッジ対象とヘッジ手段の損益認識時期を整合させることも可能と考えられます。
①排出枠(資産) | 「完全市場価値」アプローチ(IFRIC第3号) | 「決済コスト」アプローチ(当初市場価値) | 「決済コスト」アプローチ(名目価額) |
いつ認識すべきか | 排出枠の行使が可能となった時点で、貸借対照表に適切な資産項目※1で認識する。 | 排出枠の行使が可能となった時点で、貸借対照表に適切な資産項目※1で認識する。 | 排出枠の行使が可能となった時点で、貸借対照表に適切な資産項目※1で認識する。 |
いくらで認識すべきか | (当初測定) (事後測定) |
(当初測定)当初認識日の市場価値で測定する。 (事後測定) |
(当初および事後測定) 取得原価で測定する。取得原価は、排出枠が与えられる場合、名目価額となる(通常ゼロ)。 |
②排出に係る義務(負債) | 「完全市場価値」アプローチ(IFRIC第3号) | 「決済コスト」アプローチ(当初市場価値) | 「決済コスト」アプローチ(名目価額) |
いつ認識すべきか | 排出に係る義務が発生したときに認識する。 | 排出に係る義務が発生したときに認識する。 | 排出に係る義務が発生したときに認識する。 |
いくらで認識すべきか | 各期末における排出枠の市場価値(または先渡価格に基づく価値。後述参照)に基づいて負債を再測定する。 これは、その負債の決済が保有する排出枠によるか、市場からの購入によるかにかかわらない。 |
各期末に負債を再測定する。 保有する排出枠を使用して決済される負債は、その排出枠の帳簿価額で測定される。超過排出量は、期末における排出枠の市場価値(または先渡価格※2に基づく価値)で測定される。 |
各期末に負債を再測定する。 保有する排出枠を使用して決済される負債は、その排出枠の帳簿価額で測定される(通常ゼロ)。 超過排出量は、期末における排出枠の市場価値(または先渡価格※2に基づく価値)で測定される。 |
③政府補助金 | 「完全市場価値」アプローチ(IFRIC第3号) | 「決済コスト」アプローチ(当初市場価値) | 「決済コスト」アプローチ(名目価額) |
いつ認識すべきか | 排出枠の行使が可能となった時点で、貸借対照表に繰延収益として認識する。 | 排出枠の行使が可能となった時点で、貸借対照表に繰延収益として認識する。 | 排出枠の行使が可能となった時点で、貸借対照表に繰延収益として認識する。 |
いくらで認識すべきか | (当初測定) (事後測定) |
(当初測定) (事後測定) |
(当初および事後測定) |
出典:PwC「Emissions trading systems: The opportunities ahead」をもとにPwC作成
本稿では、政府主導で排出権取引を実施している規制市場(Compliance market)に関する会計制度や会計実務等について、EU-ETSを中心に解説しました。一方、近年はネットゼロ宣言やネットゼロコミットメントを自主的に公表する企業が世界的に増加していることに伴い、規制や政策にかかわらず排出量の削減を行うことを意図した民間主導の自主的炭素市場(Voluntary Carbon Market:VCM)の動きも活発になっています。英国ロンドン証券取引所は2022年10月にVCMを立ち上げることを発表し、2022年12月に最初のVCMが認証されました。今後は、規制市場に加えてVCM市場でも著しい成長があると考えられます。
VCMにまつわる会計制度や会計実務は、規制市場と類似する点が多く見られるものの、炭素クレジットの公正価値評価や研究開発費等の分野でVCM特有の会計論点や実務上の課題も存在します。本誌次号では、VCMにおける制度や実務上の課題等に関して読者の皆様に情報提供したいと考えています。
PricewaterhouseCoopers LLP
シニアマネージャー 吉原 翼