我が国の資本市場においても、監査報告書上での「監査上の主要な検討事項(Key Audit Matters:KAM)」を記載する実務が主に2020年3月期決算から始まりました。監査報告書の透明化とも言われるKAMの導入を含む監査報告書改革は、英国やオランダなどの欧州諸国から2013年頃に始まり、その後2015年の国際監査基準(ISA 701)の改訂を経て、すでに香港やシンガポールなどを含む先進諸国にも導入されています。我が国においては、2019年の監査基準改訂により、ようやく主に2020年3月決算より早期適用という形で実務が始まることになりました。
本稿では、我が国のKAM早期適用の状況や海外(特に英国)の導入当初の状況に鑑みて、筆者が感じたことを縷々述べたいと思います。したがって、本稿の文中の洞察や意見に関する部分は専ら筆者個人のものであり、筆者の所属する組織を代表するものではありません。
2020年3月期までの早期適用企業48社の監査上の主要な検討事項(KAM)の事例分析等が、日本公認会計士協会をはじめとして複数の団体・個人によって実施・公表されています。これらの公表された分析だけでなく、筆者は投資家をはじめとする利用者からできるだけ直接評価を聞くようにしています。個々の事例については、型にはまったボイラープレートな記載に物足りなさを感じたという意見がある一方で、有益な情報が提供されていたという好評価も多数聞くことができました。全体の評価として、当初数百とも想定されていた早期適用の社数が実際には48社だったことでかなり少ない印象を持たれた関係者も少なからずいたようです。
2020年3月期は新型コロナウイルス感染拡大の影響により、企業の決算業務と監査業務にさまざまな困難が生じましたが、仮にこの状況が早期適用の数に影響したのであれば少し残念と言わざるを得ません。今回の2020年3月期の上場企業決算は、新型コロナウイルス感染症拡大の状況下において会計上の見積りに与える影響を含む情報の積極的な開示が上場企業に強く求められた時期であり、それと同様に監査報告書上のKAMによる情報提供にも大きな意義のある時期であったと思われるからです。
KAMには企業情報開示の拡充を促す効果があると言われます。2020年3月期は、企業内容等の開示に関する内閣府令(以下、内閣府令)の改正により有価証券報告書のリスク情報や重要な会計方針および見積りに係る開示の拡充等が行われたこともあり、純粋にKAMによって促進された拡充部分のみを特定することは難しいですが、早期適用事例を見ると、また筆者自身の体験に照らしても、たしかにKAMが企業情報開示の拡充を促す効果があったと感じられます。
ある投資家の言葉をお借りすれば「KAMには企業情報の質がにじみ出る」とのことです。企業と投資家等との対話に際して、企業の情報開示こそが主役であり、監査報告書の本来的な機能は開示情報に信頼を付与することです。結果的にKAMが企業情報を飛び越えて、一次的な情報提供を行うことは望ましいことではありません。しかしKAMが良い内容となるかどうかは、企業情報開示が利用者に有益で充実した内容であることが必須条件であると言えそうです。
ただし、企業情報が充実した有益なものであったとしても、必ずしも良いKAMが提供されるとは限りません。この点は会計監査人側の洞察力と努力にかかっていることは言うまでもありません。
英国での監査報告書の透明化、すなわちKAMの導入は2013年に(正確には2012年10月1日以降に開始する会計年度より)行われました。英国でのKAM導入初年度の状況については、2015年3月に英国財務報告評議会(Financial Reporting Council:FRC)が「Extended auditor’s reports: A review of experience in the first year」を公表しています。さらに、適用翌年度の状況については、2016年1月に「Extended auditor’s reports: A further review of experience」を公表しています。当時から筆者は、英国でのKAM導入の状況をPwC英国事務所のパートナー等から直接聴取する機会を持つよう努めていました。これらを通じて得られた示唆には、今後の我が国におけるKAMの強制適用とその後の定着に向けて参考にできることが多くあります。
英国での適用初年度におけるKAMの事例にはボイラープレート化の傾向が少なからずありました。KAMとして取り上げられた項目には、営利企業について原則的に取り上げることが監査基準によって求められているデフォルトの監査リスクである「収益認識に係る不正リスク」や「経営者による内部統制の無効化」といったリスクが比較的多く取り上げられ、これらについてボイラープレート的な記述が行われた事例が散見されました(図表1)。
このような英国での適用初年度の状況について、利用者である投資家等からのフィードバックがあり、有益とは思われない内容に対する忌憚のない批判が寄せられた一方で、推奨されるべき事例に対する賞賛(例えば、The IMA Auditor Reporting Award※1)などは、会計監査人によるその後のKAMの改良と創意工夫に向けた動機付けに大いに寄与することになりました。その結果として、導入2年目以降にKAMとして取り上げられた項目は、上述のデフォルトの監査リスクに関するものが減少した一方で、固定資産やのれんの減損などの会計上の見積りに関連する項目についてより詳細で具体的な記述が行われるようになったという変化が見られました(図表2)。
また、KAMの記述内容についても、2年目以降は企業固有の状況やリスクについての記載が充実し、より具体的なものが多くみられるようになっています。さらに、KAMの中にダイアグラムやマップを入れる事例や、発見事項や所感(Findings・Outcome)などの記載を入れるなどの取り組みも出てきました。
このようなKAMの改良に向けた革新的な努力はその後も利用者である投資家等のステークホルダーからのフィードバックを受けながらその後も継続しています。このような良いモメンタムが、今後の我が国のKAMの定着と進化においても期待されます。
英国でのKAMの導入は、戦略報告書(Strategic Report)の導入および監査委員会報告書(Audit Committee Report)の改革と同時期に行われました。
筆者が、PwC英国事務所のパートナーから聞いた話では、英国で「これら3つのツールが同時期に導入されたことは僥倖であった」とのことです。すなわち、戦略報告書では、事業戦略やビジネスモデルなどとともに、リスク情報(Principal Risks)が経営者によって開示されることになります。一方、監査委員会報告書では、監査委員会の活動状況等の記載として主要なイシュー(Significant Issues)が記載されることになります。
さらに会計監査人の監査報告書で取り上げられるKAMと、戦略報告書のリスク情報および監査委員会報告書の主要な検討事項には、イシューとしての共通項がみられます。経営者と統治責任者としての監査委員会と会計監査人が、それぞれの立場から、企業の重要なリスクについて記述することになります。したがって、これらの報告書が含まれた英国企業の年次報告書を読むと、結果として一連の流れを感じることができます。特に監査委員会報告書で取り上げられたSignificant Issue(主要なイシュー)と監査報告書のKAMで取り上げられた事項には高い相関関係が見られます(図表3)。
我が国においても、2018年の内閣府令の改正により有価証券報告書におけるリスク情報や重要な会計方針および見積りに係る開示の拡充が行われました。また、同改正では有価証券報告書における監査役会等の活動状況の開示の拡充が行われ、監査役会等における「主な検討事項」の記載が2020年3月期以降の有価証券報告書に求められることになりました。英国における3つのツールに相当する改革が我が国においても行われている状況と言ってもよいでしょう。
リスク情報や重要な会計方針および見積りの開示、監査役会等の活動状況の開示並びに監査報告書のKAMが良い相互作用を及ぼしあうことで、企業と投資家との建設的な対話の促進に寄与する有用な企業情報開示に繋がっていくことが望まれます。
今後のKAMの強制適用に向けて、今回の早期適用事例はベンチマークになるかと思います。早期適用事例の良いところは参考にしつつも、ここに留まるのではなく、さらにKAMを利用者にとって有用なものにしていく努力が重要です。
会計監査の業務執行を担当する筆者は、KAMの作成者側の人間であり、むしろKAMに対する評価や批判を受ける立場にあります。今回の早期適用事例に対する利用者からのコメントの一つ一つを真摯に受け止めたうえで、今後のKAMの実務の定着と進化に向けた努力と挑戦を続けていきたいと思います。
PwCあらた有限責任監査法人
パートナー 小林 昭夫
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