現在、ビジネスにおいてデータアナリティクスやAIがキーワードとなっています。政府はSociety 5.0の実現に向けて、教育改革、研究開発、社会実装など幅広く目指す「AI戦略2019」を策定しました。社会実装では、健康・医療・介護、農業、国土強靭化(インフラ・防災)、交通インフラ・物流が主な取り組みとなっています。筆者のチームはアクチュアリーとして数理技術を活用し、これらの社会課題を解決することを目指しています。アクチュアリーは確率・統計を駆使して生命保険・損害保険の商品開発などを行っており、高齢化社会の到来と頻繁に発生する大規模な自然災害について特に大きな課題意識を持ってきました。本稿では、特に関連する健康・医療・介護のデータ分析、防災に関係する自然災害リスクモデル活用の視点での取り組みを紹介します。
なお、文中の意見に係る部分は筆者の私見であり、PwCあらた有限責任監査法人および所属部署の正式見解でないことをあらかじめご理解頂きたく、よろしくお願いします。
PwCあらた有限責任監査法人は、2018年11月に「Vision2025 デジタル社会に信頼を築くリーディングファーム」を公表しました。これは、PwCのPurpose(存在意義)として、「社会における信頼を構築し、重要な課題を解決する」を実現するための戦略を構想したものです。「信頼(トラスト)」をキーワードに、「品質の追求」「トラストサービスの拡充」「デジタル化とデータ活用」「人財の未来への投資」「ステークホルダーへの発信と対話」を戦略的優先領域に挙げていますが、本稿では主に「デジタル化とデータ活用」についてフォーカスをします(図表1)。
政府は「AI戦略 2019」の中で広範なデジタル化を計画しています(図表2)。健康・医療・介護のデータ分析、防災に関係する自然災害リスクモデル活用の視点での取り組みをご紹介する前に、社内でよくある場面について考えてみましょう。
社長: データアナリティクスやAIが流行っているから、わが社もこれらを活用したビジネスができないか事務局で検討せよ。
事務局A: 何をしたらいいのやら。専門知識もないし。
事務局B: 活用できるデータを整備するには多額の予算が必要です。したがって、投資するには効果が出るかフィージビリティスタディが必要です。
事務局C: まずはPoC(Proof of Concept:概念実証)を実施するのが基本なのでやってみましょう。
(その後)事務局C: PoCの結果は出ましたがブラックボックスだし、これだけではよくわかりませんね。本格的に行う予算はないのでしばらく他社動向を見ましょう。
これは極端に単純化した話ですが、ポイントを見ていきましょう。
まず社長がビジネストレンドにアンテナを張っていること自体は良いのですが、漠然とした指示・丸投げでは物事は進みません。筆者の経験でも、トップのビジョンだけが先走り組織体制が整備されていないケースや、逆に横断的な組織体制は整備したものの推進力がなく表面的な対応となっているケースが散見されます。また流行りのソリューション導入自体を目的化してはいけません。
事務局Aは専門知識がないことから思考停止になっています。担当者は「自社のビジネスでは何が課題であり、どのように解決したいか」をまず考える必要があります。その整理の中で、データアナリティクスやAIを活用することが適切である領域についてはこれらを適用していくことになります。その過程で外部のアドバイザーを活用するケースも考えられますが、的確に役割分担する必要があります。
事務局Bは鶏と卵の関係になっています。社内データがスタンドアローンで存在しているため、有機的な形でデータ分析に活用できないケースが非常に多く散見されます。これを統合して活用できるようにするアプローチは各社の状況によって変わります。また、前例のリサーチに注力してフィージビリティスタディを行っても、自社に完全にフィットする事例があるとは限らず、それより先に議論が進まないというケースも散見されます。
事務局Cはより実務的な観点でPoCを推進しましたが、次のアクションにつながりませんでした。PoCを計画する段階でその目的が経営課題の解決に向けた全体構想のうちどの部分の有効性を裏づけることになるかを事前に考慮し、全体の進め方の構想をしっかり立案しておく必要がありました。例えば、現場の作業効率化のためAs-Isの状態にRPA(RoboticProcess Automation)を導入するのでは不十分ということがよくあります。現状のオペレーションをエンド・ツー・エンドでチェックし、標準化したあとでRPAを適用し、そのフローを見える化し、メンテナンスポイントを整理しておくことがガバナンスを高めることにもつながります。まずは、課題と解決の方向性を鳥観図的に整理し、現状の業務・システムオペレーションなどを包括的に整理しTo-Be像を構想していく中で特定のソリューションの適用を検討することが必要となります。そのためには、マネジメント層が積極的にビジョンを示し、オーナーシップを持って検討を推進することが不可欠となります。このためマネジメント層がITリテラシーを高めることが重要です。
また、新しいソリューションが社会に浸透していくにはブラックボックスとならないためのトラストが重要となります。AIやデータアナリティクスの活用は、結果に対する説明責任と技術に対する信頼性が担保される必要があります。
デジタルの時代となってもAIやデータアナリティクスが全てを解決できるわけではありません。もちろん自動運転やゲノム解析のように特定の目的に対して非常に進歩している領域はありますが、汎用型AIは存在しません。ユーザーの目的に合わせて、過去・現在の情報をもとに将来あるいは新たな事象を予測する数理モデルのパラメータを推計し、モデルのアウトプットをアクションに活用しているだけなのです。
したがって、ユーザーはそのモデルの限界を理解したうえで活用することが重要となります。不適切なデータで学習したAIは中身のロジックに問題がなくとも誤った判断を行うことになります。さらに、ユーザーの使途に応じて要求レベルが変わる点にも留意が必要です。例えば人を感知し機能するAIエアコンよりも一般的にAI医療機器のほうが要求される水準が厳しくなります。使用するデータ品質、個人情報保護、サイバーセキュリティ対策、ユーザーと開発者の責任分担なども重要となります。
超高齢化社会への基本的な対策は、1995年に施行された「高齢社会対策基本法」に基づき、就業や所得、健康や福祉、学習や社会参加、生活環境など多面的な施策が行われています。本稿では、その中でも特に健康に絞って見ていきます。厚生労働省より2019年に公表された「今後のデータヘルス改革の進め方について」ではその改革の目指す4つの領域が示されています(図表3)。
この中でも私たちが注目しているのは、「4. データベースの効果的な利活用の推進」を中心とした、さまざまな医療データベースの整備です。これは国民、患者、利用者の目線に立った取り組みとなっています。
医療データベースの整備は、全国医療費適正化計画および都道府県医療費適正化計画の作成、実施および評価のための「レセプト情報・特定健診等情報データベース(NDB)」、国保保険者等の保健事業の計画の作成や実施を支援するための「国保データベース(KDB)」、診断群分類点数表の作成、医療機関別係数の設定等に活用される「DPCデータ」などがありますが、現在いずれもおのおのの目的以外の利用は原則認められていません。これらのデータベース基盤はサイバーセキュリティ対策、個人情報の取り扱いが重要となっていますが、目的以外に利用を拡大する場合は社会規範上問題になる利活用を防止するため、さらなるリスク対策の検討が必要となります。
一方、民間のメディカルデータプロバイダがさまざまな医療データを販売しており、一部の製薬会社や保険会社などでは活用されていますが、これは収集されたデータ属性が高齢者を十分カバーしていないといった制約や有料であることなどの制約があります。日本は世界で最も超高齢化社会に直面しているフロントランナーであるため、健康保険データで十分捕捉されていない高齢者データも含めてデータベースを整備し、対策を進めていくことは急務と言えます。
医療データの利活用は、診断・治療開発から電子カルテ標準化など医療現場での活用に加え、予防の観点から国民の日常生活改善に向けたPHRや健保組合向けの健康スコアリングへの活用も期待されています。
予防方法を検討する際、メディカルデータと発症との関係を予測しつつ、改善指導のルールを設定していく必要がありますが、そこで重要となってくるのがデータです。一定の属性の人は将来ある病気にかかりやすいという場合、この過去・現在の情報と将来罹患した状態の因果関係を分析できるような時系列の医療データが極めて重要となってきます。
このような整備されたデータベースとディープラーニングを用いた分析技術を活用すれば、因果関係の分析から発症予測、予防や保健指導、モニタリングなどへの活用が見込めます。さらに地域データヘルス計画の高度化にもつながってきます。また保険会社は、整備された医療データベースと自社の実績データを活用すれば、引受査定高度化などの取り組みにも応用できます。最近は生命保険会社が複数の健康増進型保険商品を発売していますが、将来政府が進める医療データベースの民間利用が可能になれば、さらに顧客ニーズに応えた多様な商品開発につながると期待されています。
政府は「世界最先端デジタル国家創造宣言・官民データ活用推進基本計画の変更について(2020年7月17日)」において、デジタル強靱化社会の実現に向けた新IT戦略を打ち出しています(図表4)。この中で、新型コロナウイルス感染症がもたらした社会・価値観の変容に対応することが喫緊の課題とされ、「防災×テクノロジー」はその一項目となっています。防災のテクノロジー活用としては、防災チャットボットを活用した避難行動支援、航空写真、衛星等を活用した被災状況の迅速な把握・共有、ハザードマップの基礎となるGIS(Geographic Information System:地理情報システム)データのオープンデータ化等が挙げられます。
従来、グローバルでは銀行業界にはバーゼル規制、保険業界にはソルベンシーⅡ規制などのリスクと自己資本比率の規制が適用されており、金融機関は自社のリスクを適切に管理しERM(Enterprise Risk Management:統合的リスク管理)を推進しています。一方、商社など一部を除き一般事業会社においては、統合的なリスク管理の推進は相対的に遅れています。特に事業部門の力が強い場合、リスク管理部門によるリスクガバナンスが機能しにくいこともしばしば指摘されます。
近年、自然災害による甚大なる被害が多発しており、その対策はあらゆる産業において喫緊の課題となっています。まずは自社の事業特性に照らしリスクプロファイルを整理し、リスクマップ(発生頻度×影響度)などに落とし込み、自社のリスク管理の中で自然災害リスクを位置づけることがスタートポイントとなります。
企業活動をサステナブルに行うためのBCP(BusinessContinuity Plan:業務継続計画)は、リスク管理の一環として位置づけられます。最近ではBCPを超えて、顧客やステークホルダー目線でより長い時間軸での回復力を重視する「オペレーショナルレジリエンス」の概念が注目されています。特に自然災害が発生した際には、取引関係にあるステークホルダーを考慮したサプライチェーンリスクマネジメントが重要となります。
自然災害リスクモデルは、損害保険会社向けに「地理情報×補償額×悪化度合い」により影響額を確率論的に計測し、前述のリスク管理やERMへ活用、発生した自然災害についての被害金額の早期把握に活用するものです。この式を「地理情報×生産高×悪化度合い」などとすれば、サプライチェーンリスクなど多様な事業のリスク管理に応用できます。地理情報データに気象データ、自社の生産/物流拠点情報、ステークホルダーの生産/物流拠点情報など、さまざまな関連情報を組み合わせるため、対象範囲の絞り込み、データ粒度やデータ取得の可否などに留意し、 1 の会話を念頭にデザインを構想することが重要となります。
近年は、サステナビリティが経営課題としても重視されており、TCFD(Task Force on Climate-related FinancialDisclosures:気候関連財務情報開示タスクフォース)提言に基づく情報開示や気候変動リスクが注目されています。
自然災害リスクモデルの応用として、風水害などの原因を温暖化と捉えると、各種災害やサプライチェーンへの影響度分析を気候変動リスクの分析に適用することができ、これをTCFD情報開示に活用していくことができます。
TCFD は、企業に対して、「ガバナンス」「戦略」「リスク管理」「指標・目標」の4項目について、自社への財務的影響のある気候関連情報の開示を勧めています。TCFD提言に基づく日本企業の情報開示はまだ各社まちまちですが、取り組み途中の状況であっても開示する姿勢を見せています。
会社によって検討主体はさまざまですが、サステナビリティ部門や広報部門が検討をリードする場合は、開示以外の全社的な経営戦略・リスク管理の視点での検討が漏れないよう留意する必要があります。特に、企画部門やリスク管理部門との緊密な連携を行うか、部門横断的なタスクフォースの設置が有効となります。
なお、気候変動リスクは中長期的なリスクであり、自然災害リスクは短期的なリスク管理であるため、企業のリスク管理の全体像の中で時間軸を含めた整理を行うことに留意が必要です。
エンジニアとコンサルタントの両面を持つ私たちは、常に狭く深い分析と幅広い経営視点の両立を意識してきました。政府の関係省庁が、超高齢化社会への対応や甚大な自然災害への対応にデジタルを活用するビジョンを掲げていることは、実務家としては心強く受け止めています。
世界経済フォーラム(World Economic Forum)の2020年報告によると、発⽣の可能性が高いグローバルリスクのトップ5は自然災害や気候変動リスクをはじめとする環境問題となっています。これらの企業・社会・人類の課題解決には膨大なデータを処理するIT技術や数理モデルを駆使する専門性が必要であり、私たちの経験が少しでも貢献できればと考えています。
PwCあらた有限責任監査法人
第二金融部
パートナー 鈴田 雅也