人的資本開示を取り巻く動向

はじめに

ある会社が従業員に対して給与を支払った場合、そのコストは費用として処理されます。会計や簿記に少しでも知見があれば不思議に思うことはありません。

しかし、後述する「人的資本可視化指針」では以下のように述べられています。

「これまで、自社の人的資本への投資は、財務会計上その大宗が費用として処理されることから、短期的には利益を押し下げ、資本効率を低下させるものとしてみなされがちであった。そのため、企業による資本効率向上のための努力が重ねられる中、足下の利益を確保するために人的資本への投資は抑制されたり、後回しにされたりしやすい構造にあった」

もちろん、このことをもって資本市場の発展に対する会計や簿記の役割が否定されるものではありません。しかし、S&P 500に属する企業において企業価値に占める無形資産の割合が9割を占めるという論考※1もある中で、無形資産の担い手といえる人的資本への投資は企業価値に直結することから、その情報を投資家をはじめとしたステークホルダーへ適切に開示することが重要であるという認識が広がっています。

本稿では日本を中心とした人的資本開示を取り巻く動向を俯瞰するとともに、企業に求められる対応について考察します。

なお、文中における意見は全て筆者の私見であることをあらかじめ申し添えます。

I 人的資本をめぐる動向

1 人的資本可視化指針(日本)

2022年8月に内閣官房は「人的資本可視化指針」(以下、可視化指針)を公表しました。この指針は、人的資本に関する情報開示の在り方に焦点を当て、既存の基準やガイドラインの活用方法を含めた対応の方向性について包括的に整理した手引とされています。また、本指針と「人材版伊藤レポート」および「人材版伊藤レポート2.0」を併せて活用することで、人材戦略の実践(人的資本への投資)とその可視化の相乗効果が期待できる、とされています。

可視化指針および人材版伊藤レポートの概略は図表1のとおりです。

ました。
図表1:可視化指針 および人材版伊藤レポートの概略

可視化指針では人的資本の可視化方法が図表1の左側にある①~③の3つのステップで述べられています。加えて、図表2にあるとおり、可視化に向けた具体的なアクションが「基盤・体制確立編」と「可視化戦略構築編」の2つに区分されたうえで、有価証券報告書および任意開示への落とし込みについて記載されています。

また、可視化指針では、最初から完成度の高い人的資本の可視化を行うのではなく、「できるところから開示」を行ったうえで、投資家等のステークホルダーからの開示へのフィードバックを受け止めながら、人材戦略やその開示をブラッシュアップしていくことが非常に重要だと考えられています。

図表2:可視化に 向けたステップ

2 企業内容の開示に関する内閣府令等(日本)

本特集の他の論考でも触れられているとおり、2023年1月31日に「企業内容の開示に関する内閣府令(以下、開示府令)」「企業内容等の開示に関する留意事項について」が改正されるとともに、「記述情報の開示に関する原則」の別添資料※2が公表されました※3

人的資本開示に関連する改正内容の概要は図表3のとおりです。

図表3:改正後開示府令の 内容(人的資本開示に関連する部分のみ)

(1)従業員の状況

改正後の開示府令では有価証券報告書に、いわゆる女性活躍推進法等で規定されている「男女間賃金格差」「女性管理職比率」および「男性の育児休業取得率」を記載することとされています。また、記載が義務づけられているのは女性活用推進法の規定により当該指標を公表している会社とされています。ただし、「記述情報の開示に関する原則」の別添資料では、これらの多様性に関する指標については、投資判断に有用である連結ベースの開示に努めるべき旨が記載されています。

なお、これらの情報に加えて任意の追加的な情報を追記することも認められています。

(2)サステナビリティに関する考え方及び取組

有価証券報告書の前段に「サステナビリティに関する考え方及び取組」の欄を新設したうえで、「ガバナンス」「リスク管理」については必ず記載し、「戦略」「指標及び目標」のうち、重要なものについて記載することとされています。

なお、これらの事項は以下のとおり定義されています。これらは本特集の「有価証券報告書における気候変動開示の分析」で取り上げたTCFDがベースとなっており、その内容をサステナビリティ全体に拡張したものとなります。

ただし、人的資本については重要か否かにかかわらず、以下を記載することとされています。

  • 戦略:
    人材の多様性の確保を含む「人材の育成に関する方針」および「社内環境整備に関する方針」(例:人材の採用および維持ならびに従業員の安全と健康に関する方針)
  • 指標及び目標:
    上記に記載した各方針に関する指標の内容、当該指標を用いた目標および実績

なお、有価証券報告書の他の箇所に上記の情報を記載した場合には、その箇所を参照することが認められています。そのため、「従業員の状況」に記載した指標については、「指標及び目標」において記載する必要はありません。

図表4:開示府令における定義

項目 定義
ガバナンス サステナビリティ関連のリスク及び機会を監視し、及び管理するためのガバナンスの過程、統制及び手続
リスク管理 サステナビリティ関連のリスク及び機会を識別し、評価し、及び管理するための過程
戦略 短期、中期及び長期にわたり連結会社の経営方針・経営戦略等に影響を与える可能性があるサステナビリティ関連のリスク及び機会に対処するための取組
指標及び目標 サステナビリティ関連のリスク及び機会に関する連結会社の実績を長期的に評価し、管理し、及び監視するために用いられる情報

出所:筆者作成

(3)記載に関する留意事項

その性質上、サステナビリティ情報に関しては将来情報を含むことが多いですが、記載すべき重要な事項について、一般的に合理的と考えられる範囲で具体的な説明が記載されている場合には、有価証券報告書に記載した将来情報と実際に生じた結果が異なる場合であっても、直ちに虚偽記載等の責任を負うものではない旨、規定されています。

また、サステナビリティ情報について、有価証券報告書の他の箇所を参照できることは前述したとおりですが、当該事項を補完する詳細な情報について、いわゆる任意開示書類を含む他の書類を参照することが認められています。この場合、参照先の書類に虚偽の表示等があったとしても、直ちに有価証券報告書の虚偽記載等の責任を負うものではない点も併せて規定されています。

(4)適用時期

改正後の開示府令等は令和5年(2023年)3月31日以後に終了する事業年度に係る有価証券報告書等から適用されます。ただし、早期適用も認められています。

3 海外における動向

本特集の「非財務情報開示の潮流と対応策」に記載したとおり、非財務情報開示の開示基準等に大きな変化が見られます。グローバル、欧州、米国の動向に関しては前述のとおりですが、この他にもISO(国際標準化機構)は2018年12月にISO30414「社内外に対する人的資本の情報開示のガイドライン」を公表しています。また、WEF(世界経済フォーラム)は2020年9月に公表した「ステークホルダー資本主義の進捗の測定」において「人」に関する指標を含む、21の中核指標と34の拡大指標を提示しています。

Ⅱ 求められる企業の対応

1 2023年3月期 有価証券報告書対応

前節で述べたとおり、3月決算会社においては次に提出する有価証券報告書から人的資本に関する開示が必要となる可能性が高いことから、早急に準備を始める必要があります。

従業員の状況

今回の開示府令では女性管理職比率等の開示が求められているものの、開示が義務づけられているのは、あくまでも女性活躍推進法等の規定に基づいて当該指標を開示している会社のみです。このため、当該規定を充たす目的であれば有価証券報告書のための追加的な対応は必要ないことになります。

ただし、前述のとおり連結ベースでの情報開示を求める意見もあります。そのため、対応の有無およびその時期は別としても、今後の制度や他社の動向、あるいはステークホルダーのニーズについては引き続き留意する必要があるものと思料します。

「サステナビリティに関する考え方および取り組み」欄

ESG投資の潮流や、2021年6年のコーポレートガバナンス・コード改訂をきっかけとして、気候変動を中心にサステナビリティに関する取り組みを強化している企業も多く、例えば本特集の「有価証券報告書における気候変動開示の分析」にもあるとおり、TCFD開示が充実する傾向もみられます。

そのため、統合報告書やサステナビリティレポートなどですでに行われている開示を有価証券報告書でも利活用することが最も有用と考えられます。また、今後サステナビリティに本格的に取り組む企業であったとしても、開示府令にて開示が必須とされている「人材の育成に関する方針」および「社内環境整備に関する方針」に関しては社内規程等の形で同様の内容が整備されているケースが多いと考えられるので、これらの内容を利活用することが想定されます。

またこのような取り組みは、ステークホルダーのニーズや各媒体の開示時期を踏まえ、開示媒体別にどのような情報を開示するのかを整理する機会ともなり得ます。そのうえで、将来的にはいわば開示戦略(本特集の「非財務情報開示の潮流と対応策」Ⅲの1を参照)に発展させることも視野に入れられるでしょう。

2 中長期的な企業価値の向上に向けて

1では近々の課題である2023年3月期の有価証券報告書開示への対応について述べました。しかし、本論考の冒頭で記載したとおり、人的資本開示の目的が企業価値の向上にあることを踏まえた場合、ゴールとして設定すべきは、規則に沿った開示を行うことではなく、中長期的な取り組みを通した企業価値の向上だと考えます。

(1)人的資本と価値創造のストーリー

2013年に国際統合報告フレームワークが公表されて以降、「価値創造のストーリー」という単語がよく聞かれるようになりました。人的資本の文脈に置き換えた場合、例えば可視化指針ではROIC(投下資本利益率)と人的資本がどのように結びついているかを示した逆ROICツリーが紹介されています。このように整理することで、人的資本への取り組みが将来の財務のリターンに結びつくことが明確となり、企業価値の向上に役立つと考えられます。

なお、このストーリーを検討するための材料として、可視化指針に記載された各開示基準等の開示要求事項のリストや、参考資料にある「FRCの報告書における『企業が自らに問うべきこと』」をベースにしたディスカッション結果を用いることも有益と考えます(図表5図表6)。

図表5:可視化指針における開示要求事項の抜粋

領域 開示項目例
育成 研修時間、研修費用、研修受講率、リーダーシップの育成、人材確保・定着の取組の説明
従業員エンゲージメント 自社の方向性に共感し、貢献したいと思う従業員の意欲
流動性 離職率、定着率、新規雇用の総数・比率、採用・離職コスト、後継者有効率、後継者カバー率
ダイバーシティ 属性別の従業員・経営層の比率、男女間の給与の差、育児休業後の復職率・定着率
健康・安全 労働災害の発生件数・割合、死亡者数、健康・安全関連取組等の例
コンプライアンス・労働慣行 深刻な人権問題の件数、業務停止件数、児童労働・強制労働に関する説明

出所:「人的資本可視化指針」を加筆修正

図表6:「企業が自らに問うべきこと」の例

項目 質問(抜粋)
ガバナンスと経営
  • 従業員関連の事項の責任者は誰ですか?また、従業員関連の事項はどのような頻度で検討されますか?
  • 取締役会は従業員に関連してどのような情報と指標をモニターしていますか?
ビジネスモデルと戦略
  • 雇用モデルは、自社のビジネスモデルをどのように強化していますか?
  • 従業員は会社の価値を生み出したり維持したりすることにどのように貢献していますか?
リスク管理
  • 従業員関連のリスクはどのようにモニターされ、管理され、どのように軽減が図られていますか?
  • 従業員関連の事項を考慮に入れた場合、自社の長期の持続可能性はどのように評価されますか?
指標及び目標
  • 企業文化に関連する事項としてどのような指標がモニターされていますか?
  • 開示された指標は一貫した計算方法を取っていますか?

出所:「人的資本可視化指針」から一部抜粋

(2)前提となる情報の信頼性

本特集の「非財務情報開示の潮流と対応策」で述べているとおり、非財務情報においても信頼性が求められています。人的資本開示も例外ではなく、信頼性を確保するための、内部統制を含む開示プロセスの高度化、効率化、さらには内部監査の実施といった取り組みが求められます。なお、開示プロセスの構築に際しては、人的資本という性質上、秘匿性の高い個人情報への配慮も必要です。

Ⅲ おわりに

昨今、「グリーンウォッシング」という言葉をよく目にします。これは環境に限ったトピックではありますが、一方で、「人財」あるいは「人を大切にした経営」といった言葉を掲げる企業が本当にそのとおりの経営や取り組みをしていたのか、昨今の報道を見ても首を傾げざるを得ない、いわば「人材版グリーンウォッシング」のような状況が見受けられます。

本稿では企業価値の向上という点に着目をしていますが、そもそも人を大切にする経営をしているか、という観点は企業価値を語る以前に、社会の公器たる企業のあるべき姿を模索するうえで避けては通れない点ではないかと考えます。適切な人的資本開示をすることが、企業価値の向上だけでなく、企業に関わる多くの人々の幸福に結びつくことを願ってやみません。

ません。情報の信頼性についても担保されていなければなりません。

※1 Intangible Asset Market Value Study(Ocean Tomo)
https://www.oceantomo.com/intangible-asset-market-value%20study/

※2 サステナビリティ情報の開示における考え方および望ましい開示に向けた取り組みを取りまとめたものであり、「重要性(マテリアリティ)」の考え方を含め、今後原則が改訂される可能性がある。

※3 https://www.fsa.go.jp/news/r4/sonota/20230131/20230131.html


執筆者

PwCあらた有限責任監査法人
サステナビリティ・アドバイザリー部
ディレクター 中村 良佑