2022年8月31日に金融庁が公表した「2022事務年度金融行政方針」でも言及されているとおり、新型コロナウイルス感染症やロシアによるウクライナ侵攻に伴う物価高騰等の影響、気候変動問題、デジタル化の進展、人口減少・少子高齢化などにより、⾦融市場をはじめ、国内外の経済の先行きに対する不透明感が大きく高まるとともに、急速に構造的な環境変化が生じています。
このような状況下、銀行・証券セクターには重要な社会インフラとして金融システムの安全性・信頼性の維持・向上がこれまで以上に求められていると考えます。銀行・証券が対応すべきことは多岐にわたるため、ここで全てを語ることはできませんが、本稿では筆者らが日々銀行・証券セクターの方々と対話している中で最近話題にのぼることが多い次の2点について取り上げることにしたいと思います。
本誌ではこれまでもFATF(Financial Action Task Force/金融活動作業部会)による日本に対する第4次相互審査の結果とその後の動向について取り上げてきましたが、本稿では、2022年9月の日本によるFATFへのフォローアップ報告結果の公表を踏まえた今後の重要課題について概観します。加えて、社会・経済環境の変化による新たな分野への対応についても考察します。
近年、LIBOR問題※2にはじまり、外国為替や株式の相場操縦事案、アルケゴス事件※3など、1線のガバナンス不全に起因すると思われる事案が断続的に発生しており、第1のディフェンスライン(First Line of Defense:1LoD)の重要性が改めてフォーカスされています。本稿では、実効性の高い1LoD構築のために、金融機関の、特に市場業務従事者に求められることに関して考察します。
今後も、本誌において銀行・証券セクターに関する最新動向や課題を取り上げていこうと考えています。読者の方々が取り上げてほしいと考える論点があれば筆者までご連絡いただけると幸いです。また、本稿は、現在起こっていることや今後どういったことが起こりうるのかという点について個人的な見解として取りまとめたものであり、数ある意見のひとつとしてご理解いただければと存じます。
日本はFATFの第4次相互審査における厳しい指摘を受け、審査結果が公表された2021年8月に政府が組織した対策会議において「マネロン・テロ資金供与・拡散金融対策の行動計画」(以下「行動計画」)を策定し、2024年3月末を期限とした体制整備策を打ち出しました。先般、行動計画策定から約1年経過した2022年9月には日本のFATFへのフォローアップ報告の結果も公表され、日本の対策の進捗状況や、今後、日本が官民挙げて注力すべき課題もより明確になってきています。さらに、今後は、人権保護や経済安保等の動きが金融機関等のAML/CFTの実務にさまざまな影響を与えていくとみられます。
本稿では、FATFのフォローアップ報告結果などを踏まえ、今後求められるAML/CFT実務の重要課題と、今後のAML/CFT実務に影響を及ぼすとみられる留意すべき新たな潮流について解説します。
行動計画の策定後、計画に則り、わが国ではさまざまな対応が官民でなされてきました。その成果としてのFATFへのフォローアップ報告結果を概観します。
日本のFATF第4次相互審査の結果は、2021年8月に公表されました。総合的な評価では、合格水準の「通常フォローアップ国」ではなく、その次の「重点フォローアップ国」と評価されました。重点フォローアップとなった国々は、5年の間に3回、体制の改善状況の報告(フォローアップ報告)を求められます。2022年にその第1回の報告がなされ、同年9月に結果が公表されましたが、日本は法令等整備状況に係る審査項目「勧告2:国内当局間の連携協力」について、「一部遵守(PC)」の不合格水準から「概ね遵守(LC)」の合格水準に改善しました。しかし、法令等遵守項目で不合格水準であった他の10項目については改善の評価を得られず、大きな前進は見られませんでした。フォローアップ評価では評価対象外である有効性評価項目の不合格水準の項目数も8項目で変わらず、いずれもME(4段階の上から3番目・中程度の有効性)であり、総合的な評価は「重点フォローアップ国」のまま変化はありませんでした(図表1)。
なお、勧告2の評価の改善は、マネロン・テロ資金供与・拡散金融対策政策会議の設置、行動計画の策定、2021年6月の方針策定などが評価されたものと考えられます。
図表1:日本のFATF審査結果(相互審査結果公表時に合格水準に至らなかった項目)
項目 | 相互審査結果公表時(2021年8月) | フォローアップ結果公表時(2022年9月) | |
法令等整備 | R2.国内関係当局間の協力 | PC | LC |
R5.テロ資金供与の犯罪化 | PC | PC | |
R6.テロリストの資産凍結 | PC | PC | |
R7.大量破壊兵器の拡散防止 | PC | PC | |
R8.非営利団体の悪用禁止※ | NC※ | NC | |
R12.PEPs | PC | PC | |
R22.DNFBPsの顧客管理 | PC | PC | |
R23.DNFBPs疑わしい取引届出 | PC | PC | |
R24.法人の実質的所有者 | PC | PC | |
R25.法的取極の実質的所有者 | PC | PC | |
R28.DNFBPsに対する監督義務 | PC | PC | |
有効性 | IO3.金融機関・DNFBPsの監督 | ME | ME |
IO4.金融機関・DNFBPsの予防措置 | ME | ME | |
IO5.法人等の悪用防止 | ME | ME | |
IO7.資金洗浄/捜査・訴追・制裁 | ME | ME | |
IO8.犯罪収益の没収 | ME | ME | |
IO9.テロ資金の捜査・訴追・制裁 | ME | ME | |
IO10.テロ資金の凍結・NPO | ME | ME | |
IO11.大量破壊兵器の関与者への制裁 | ME | ME | |
合計 | 法令等整備状況(合格水準に至らず) | 11項目 | 10項目 |
有効性(合格水準に至らず) | 8項目 | 8項目 |
※NCは4段階評価の最下位の評価
出所:FATF資料をもとにPwC作成
FATFのフォローアップ報告に対する評価結果の公表後、2022年10月に招集された臨時国会において、FATF勧告対応法案が提出され、可決されました(図表2)。行動計画で打ち出した課題、すなわち、FATFからの指摘に対応するもので、刑事司法に関する法改正が中心となっており、内容は大きく、資産凍結措置の強化、マネロン対策等の強化、暗号資産等への対応の強化の三本立てとなっています。
図表2:2022年10月の臨時国会提出法案/FATF勧告対応法案
法令 | 分野 | 見込まれる改正内容 |
国際テロリスト財産凍結法 | 資産凍結措置の強化 | 拡散⾦融への対応(居住者間取引に係る資産凍結、北朝鮮・イランの制裁対象者の国内資産凍結) |
外為法 | 暗号資産等への対応の強化 | ⾦融機関、暗号資産交換業者等による資産凍結措置の態勢整備義務 |
外為法 | 暗号資産等への対応の強化 | ステーブルコインへの規制(資産凍結)対象拡大 |
組織犯罪処罰法 | 暗号資産等への対応の強化 | 犯罪収益等として没収可能な財産の範囲の改正(暗号資産の追加) |
組織犯罪処罰法麻薬特例法 | マネロン対策等の強化 | マネロン罪の法定刑引上げ |
テロ資金提供処罰法 | マネロン対策等の強化 | テロ資⾦等提供罪の強化 |
犯罪収益移転防止法 | 暗号資産等への対応の強化 | 暗号資産交換業者へのトラベルルール義務付け |
出所:内閣官房/国会提出法案をもとに作成(2022年11月末時点)
今般のFATFのフォローアップ報告結果を見ると、行動計画の6分野においては、1つ目の「マネロン・テロ資金供与・拡散金融に係るリスク認識・協調」に関しては対応が進展し、相応の評価を得られたと言えます。しかしながら、その他の5分野は、道半ばということで、2024年3月までに対応のスピードアップが求められそうです。
そうした中で、昨年の一連の法改正は、DNFBPs(指定非金融事業者等)※4によるAML/CFT対策および監督、マネロン・テロ資金供与の捜査および訴追等、資産凍結およびNPOの改善を狙ったものであり、今後、FATFからどのように評価されるかが注目されるところです。
図表3:行動計画と対応状況
項目 | 主な課題項目 | 主な対応 |
マネロン・テロ資金供与・拡散金融に係るリスク認識・協調 |
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対応済、FATF合格水準評価 |
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金融機関および暗号資産交換業者によるAML/CFT対策および監督 |
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2024年3月期限の実施要請、為替取引分析業創設 |
DNFBPsによるAML/CFT対策および監督 | ガイドライン策定・監督強化、リスク評価・顧客管理強化等 | 臨時国会法案提出等 |
法人、信託の悪用防止 | 法人悪用防止/リスク評価、実質的支配者情報の透明性向上(既存顧客の実質的支配者確認、商業登記所の情報の一元管理)等 | 実質的支配者リスト制度導入等 |
マネロン・テロ資金供与の捜査および訴追等 |
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臨時国会法案提出等 |
資産凍結およびNPO |
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臨時国会法案提出等 |
出所:行動計画をもとに作成
行動計画の進捗状況を見ると、今回の法改正でも手を入れられていない分野で、かつFATFのフォローアップ報告でも改善を示されていない分野は要注意と考えられます。その最たる分野は、「金融機関および暗号資産交換業者によるAML/CFT対策および監督」と思われます。この分野は2024年3月に期限が設けられており、官民共同で対策を推進中ですが、期限までの目標達成に向けて対策の進捗、結果が求められると考えられます。
特に注意すべきは、「金融機関等による継続的顧客管理の完全実施」です。継続的顧客管理では既存顧客の情報更新が必要となりますが、その更新情報を活用してリスク評価を実施、取引モニタリングに活用していくことが重要です。膨大な既存顧客の情報更新は障害も多く、2022年3月および6月の「マネロン・テロ資金供与対策ガイドラインに関するよくあるご質問(FAQ)」においては、金融機関等の民間事業者の情報更新が図りやすくなるよう、情報更新を進めるさまざまな手段の見直しなどがなされています。
具体的な例としては、SDD(簡素な顧客管理措置)の対象範囲の見直しがあります。SDDとは、DM等を顧客に送付して顧客情報を更新するなどの積極的な対応を留保し、取引モニタリング等によって、マネロン・テロ資金供与リスクが低く維持されていることを確認する顧客管理措置です。その範囲は、事業をしていない一般個人に関して、SDDの対象を「日々の生活に欠かせない口座等(生活口座)」から、「経常的に同様の取引を行う口座であって保有している顧客情報と当該取引が整合するもの(経常口座)」に拡大されています。経常口座であると対外的に説明する根拠を整理するには相応の検討が必要と思われますが、情報更新の対象が絞られることになります。この他、調査手法の郵送以外の手法の示唆、情報更新できない顧客への対応措置の考え方などが示されています。
このような見直しは、早急に一義的な既存顧客の情報更新措置を完了させ、更新情報を活用したリスク評価を実施し、取引の特徴(業種・地域等)やリスクに応じた抽出基準(シナリオ・敷居値等)の設定など、実効性あるモニタリング体制を整備する段階に移行することを求めるためとみられています。継続的顧客管理・取引モニタリングに関しては、FATFの対日相互審査結果では、「情報更新が目的化している」「取引モニタリングに継続的顧客管理の結果が活用されていない」といった趣旨の極めて厳しい指摘がなされており、期限までの実効性のある対応が必要と言えます。
もうひとつの大きな課題である「取引モニタリングの共同システムの実用化」については、銀行等の委託を受けて為替取引に関して取引のモニタリング等を共同で行う為替取引分析業を資金決済法の改正によって規定、制度の施行に向けた準備が進められており、全国銀行協会における共同システムの実用化に向けた新会社の設立が発表されました。銀行等のフィルタリング・モニタリング水準の底上げに向けた第一歩と言えますが、新会社の機能は、「各銀行等の取引モニタリングシステム・ネームスクリーニングシステムから出力されるアラート・ヒット情報のリスク度合いをスコア付けするAI機能の提供」とされています。したがって、同社の業務として検討されていた「SWIFT電文全量のスクリーニング(24時間以内対応)」は、会社設立時では業務としない模様です。また、各銀行等が抽出したアラートの解析を実施することになるため、新会社は、大量のアラート・ヒット誤検知の調査効率化に資するとみられますが、各銀行等のモニタリング業務を完全に委託することはできません。また、2024年春、2025年春の2段階でのシステムリリースが予定されており、各銀行等の体制整備の期限である2024年3月には利用開始の段階にとどまります。当然ながら、新会社から還元された情報をもとに最終的な疑わしい取引届出の判断を実施するのは銀行等となります。新会社はスタートしますが、取引モニタリング体制の整備が不要となるわけではないことを念頭に準備することが必要となります。
実質的支配者の確認に関しては、第4次相互審査での指摘への対応も厳しいのですが、さらに、第5次をにらんだ対応が求められています。すでに新たな任意の登録制度(実質的支配者リスト制度)が2022年1月に設けられていますが、実質的支配者に関する情報取得を規定したFATF勧告24が改正され、最新情報を会社および規制当局のどちらか一方だけでなく、双方で保管することが求められることになりました。国の体制整備が求められる一方で、金融機関等の民間事業者は、法人の悪用リスクを十分に念頭に置いて、取引時はもちろん、既存顧客の継続的顧客管理の中で、相応の深度で最新情報の取得を進める必要があると言えます。
さらに、信託等の実質的支配者の確認を求める勧告25に関しても、信託と同様の法的取り決めに関する実質的支配者の確認を求める改正が見込まれており、その対応の準備を進める必要があります。
制裁対象者対応は、法令等の改正によってFATF指摘への対応が進められていますが、その結果の如何に関わらず、急激な変化に応じた体制整備が重要になるとみられます。
まず、国内の法令・ガイドラインで求められる要求水準が高まっています。国際連合安全保障理事会決議等で経済制裁対象者等が指定された際には、24時間以内に遅滞なく照合することが求められています。また、外為検査ガイドライン改正では、取引の真の相手方が資産凍結等経済制裁対象者であると疑われる場合には、預金者等からの説明や預金債権の発生・変更の原因となる取引の内容を証明する書類等によって検証し、当該取引に係る真の相手方を合理的に判断することが明文化されました。
加えて、2022年2月以降のロシア制裁が制裁対象者対応を難化させています。わが国にとっては、過去に例を見ない規模で制裁対象者数が増加、このわずかな期間で外為法における制裁対象者数は約1千もの個人・団体に上っています。輸出入における規制対応も含め、データ登録からフィルタリング、ヒット時の対応など、合致した場合の適切な実務対応を意識した体制整備が求められています。
さらに、外為法に、暗号資産取引への適法性確認義務が規定され、暗号資産に関する取引が資本取引規制の対象となり、暗号資産交換業者に資産凍結措置に係る確認義務を課すなどの措置も取られています。FATFからの強い要請のあったトラベルルールへの対応も、業界団体によって先行実施されていますが、今般、改めて法制化がなされており、デジタル資産への規制強化の動きにも留意が必要です。
以上、要するに、金融機関等の民間事業者は、他力本願の対応は考えず、今般列挙した重点課題に対して能動的に計画を進める必要があります。この他に、DNFBPsへの法規制導入や、NPOへの指導強化などハードルの高い対応も残されており、多くの残課題の解消に向け、官民一体となった対応が改めて求められています。無論、その際に、審査基準が一層厳格化される第5次審査を意識した対応が必要なことは言うまでもありません(「PwC's View 第40号」参照)。
さらに、AML/CFT対応に直接・間接に影響を及ぼすと考えられる社会・経済環境の変化があり、行動計画への対応とあわせて体制整備にあたって留意していく必要があります。
人権に配慮し、強制労働等による製品の生産を見直す動きは、国連、OECDなどが提唱して進めてきましたが、近年は欧米での法制化が進み、わが国でも2022年9月に「責任あるサプライチェーンにおける人権尊重のためのガイドライン」が制定されました。
すでに、わが国でも、金融機関等の民間事業者は間接的に人権対応を開始しています。欧米では、制裁対象者に人権侵害に係る個人・企業を指定しており、わが国でも制裁対象者のスクリーニングの一環で人権デューディリジェンス(DD)を実行しています。ロシア制裁やミャンマーなどにおける軍事関係者などは人権の観点での制裁対象者という側面もあります。さらに、今後は、サプライチェーンにおける人権DDが求められる中、取引先に関しても十分なチェックが必要になってくると言えます。直接の影響を受けるのは、一般の事業法人であり、人権侵害に係る個人・企業のスクリーニングを含めた人権DDの体制整備が求められます。また、金融機関等も、早晩、取引先企業の人権DDの実施状況の確認、モニタリングが必要となってくるとみられています。
経済安全保障の分野でも同様です。拡散金融対応に類似した分野とも言えますが、技術流出の防止や国民生活の維持の観点から、製品・物資のサプライチェーン管理の強化が求められています。2022年、わが国でも経済安全保障推進法が成立、一部が施行となり、基本方針・指針が公表されました。必要に応じて重要物資の特定先への過度の依存の是正などが図られることとなりますが、海外と同様に、特定先の指定などがなされ、スクリーニングが必要となることも考えられます。この他、対内投資における外為法の規制も強化されており、外資導入によって資本構成に変化があった先については、その観点での取引への影響も視野に入れておくことも必要となります。
FATFの2022年10月の総会において、資産回収を効果的に実施するための強力な法的枠組みの重要性、国際協力がより迅速かつ円滑に行われるための行動が必要であること、効果的な活動のためFATF基準を強化する必要があること、について合意されています。AML/CFTの分野では、資産凍結等を迅速に実施することはもちろんですが、その没収、返還まで実施することが求められています。折しも各種の法令整備によって、資産凍結から没収までのプロセスは整備されるとみられますが、さらに被害者救済・回復プロセスに踏み込んでいくことが予想されます。わが国も、例えば、振り込め詐欺に関しては、振り込め詐欺救済法等によって被害回復の制度が整備されましたが、資産凍結にあたっても、同様の対応が検討されていく可能性があります。AML/CFT、金融犯罪対策の究極の姿は顧客を被害に巻き込まないことであり、顧客本位の業務運営等の考え方も念頭に、金融犯罪対策、ひいてはコンプライアンス体制全体の整備を進める必要があると考えられます。
AML/CFT対策の範囲の拡大、複雑化が進むことは避けられないとみられます。目の前のFATFの動向、国内の法改正の動向の他、国際社会・経済の大きな潮流を見誤ることなく、今後に備えることが肝要と言えるでしょう。
2022年はウクライナ侵攻に象徴されるように、世界の分断がはっきりと意識されるような年となりました。欧米ではナショナリズムや右傾化の動きも顕著に見られるようになり、アジアにおいてもロシア、中国、北朝鮮、台湾問題のような地政学的リスクがニュースとならない日はありません。
経済面では、原油をはじめとした潜在的な資源高がある中で、コロナ後の景気回復と供給制約を契機に、欧米ではこれまでにない規模のインフレが急速に進行し、その先に景気後退への懸念も見え隠れしています。こうした政治・経済の動きや人々の不安を敏感に察知して、市場は動揺しボラティリティが高まっています。わが国を見わたしても近年見たことのないレベルにまで急速に円安が進み、物価もじわりと上昇しています。ここから先の世界は過去30年の延長線上にはない不確実な時代が到来するかのような印象を受けます。
欧米の中央銀行は不退転の覚悟でインフレ退治に動いていますが、政府・中央銀行も含めて正解の分からない手探りの状態が継続しているようにも思われます。英トラス政権が大規模減税を打ち出してギルト市場、ポンド市場に大混乱を招き、退陣に追い込まれたのは記憶に新しいところです。少なくとも、長らく続いた潤沢な資金供給を背景とした低金利環境は終焉したかに見えます。金融機関はこれまで潤沢な資金を背景にアセットを積み増すだけでなく、債券や株式といった伝統的な資産からクレジット、エマージング、ヘッジファンドなどオルタナ投資へとユニバースを拡大して利回りを追求してきましたが、外貨資金調達、資産運用の両面で試練の時を迎えています。
一方、ガバナンス面に目を向けると、ここ10年ではLIBOR問題にはじまり、外国為替や株式の相場操縦事案、アルケゴス事件など、1線のガバナンス不全に起因すると思われる事案が断続的に発生してきています。
これまでにない環境の下、金融機関で市場業務を行う部署は、次々に発生する新たな問題に対して、どのような姿勢で臨むべきなのでしょうか。
リーマンショックから10年以上が経過し、今やバーゼルⅢの最終化をはじめ、店頭デリバティブ規制や証拠金規制の導入など、市場取引関連の規制が強化されており、金融機関および金融市場の健全性は格段に進歩を遂げてきました。
しかしながら、2021年3月に顕在化したアルケゴスの事案では、多くの金融機関が目先の収益や取引シェアに目を奪われ、顧客の属性に目を瞑り、リレーション優先で適切な担保を十分に取らずに高レバレッジの取引を積み上げた結果、当該顧客の破綻により巨額の損失を被ることとなりました。ビジネスを推進する1線のリスクオーナーシップの欠如、情報のサイロ化・エスカレーション不足、リスク管理の機能不全などが調査報告書等で指摘されています。リミットの超過や信用力への懸念など、社内で当該取引を問題視する意見はあったものの、それらが有機的に結合し、全社的な方針としてまとまることはありませんでした。
当局は金融機関に対して3LoD、すなわち1線(ビジネスの現場)がリスクオーナーとしてリスクコントロールを行い、2線(リスク管理部門)がリスクを監視し、3線(内部監査部門)が内部統制の観点から合理的な保証を提供する、という枠組を求めています。
この不確実な時代を乗り越えていくためには、当局から言われるまでもなく、1線そのものが自らオーナーシップを持ち、臨機応変に事にあたっていく他ありません。先を見通すことのできない不確実な状況下では、リスク管理(2線)や監査(3線)とも連携しつつ、1線が自らの持つ専門性とスピードを活かしていくことが何よりも大切な鍵となると思われます。
その中で特に重要となるのは1線組織内の企画管理部署であると考えます。金融機関の規模や類型によって組織のあり方はさまざまですが、市場取引を所管する部門には一般的に「市場企画部」とか「市場企画管理グループ」などと呼ばれる組織があり、部門のあるべき将来像を描く企画機能や、ガバナンス強化、インフラ整備、リソースの配分、2線・3線を含む本社機能との調整、当局対応などを担っています。不確実な時代を乗り切るためには、この企画管理部署を1線内のいわば司令塔(統括)として部門トップ・マネジメントの近くに置き、1線内の各部署(現場)に偏在しがちな情報を速やかに集約し、部門全体に横串を刺した施策を強力に押し進めることのできる体制づくりが不可欠であると思われます。
企画管理部署の持つ機能や役割、レポーティングラインの例は図表4のとおりですが、強化のポイントは「統括」、「スピード」そして「専門性」にあります。
「統括」という意味では、①市場リスクや流動性リスク、信用リスクなどのリスクアペタイトや、顧客取引やコンプライアンス等にかかる部門内共通の基本方針等を定め、1線が1線として遵守すべきポリシーをくまなく部門内に徹底する、②1線内の情報共有のためのシステム・インフラの整備を進め、各部署のリスク/リターンの計画・進捗を常にウォッチして、必要となる資本や人的リソース等を配分する、③各部署が直面した異例・異常事態については速やかに情報を収集し、必要に応じ、部門内各部署や2線・3線、経営陣も交えた全社的な対応策を講じる、といったことが挙げられます。
「スピード」の観点からは、上記のような異変の端緒ともなる兆候を検知した場合は、速やかに(特に悪い情報ほど早く)トップ(経営陣を含む)に上げて判断を仰ぎ、部門全体に方針を打ち出す役割が求められます。データや証憑の正確性が必要となる2線のリスク分析とは異なる1線ならではの責任感、瞬発力がモノを言うところです。
「専門性」の観点からは、1線ならではの現場(フロント)経験・専門知識を持つスタッフが、国内外の政治・経済の状況に広くアンテナを張り、アネクドータル(事例的)な情報も含めた定量・定性両面でのモニタリングを通じて、現在世の中で起きている情報を収集、今後起きるであろうことを予測し、影響分析を行います。そのうえでフォワードルッキングに自分たちはいつ何をすべきか(あるいは何をすべきではないか)を部門トップや現場を交えて繰り返し議論を行うという役割が求められます。
こうしたアクティビティについては、2線や3線とも情報を共有し、リスク管理や内部監査の方針に織り込んでいくことで、1線が何をリスクと考え、いかに対処しようとしているかに関して全社的な共通認識が醸成され、結果として3LoDが有機的に機能することにつながっていきます。
企画管理部署が1線の要として有効に機能するためにはいくつかの重要な条件があります。
まずは部門トップのコミットメントです。この部署が部門の要であることをトップが組織内外にきちんと示すことが大事です。例えば、人事や予算・経費支出(ヒト・モノ・カネ)の権限を集中させることで、部門の要であることを示すことができます。また、当該部署のヘッドは朋輩(部門内に複数存在する各部の部長)中の首席であることが望ましく、このポストを経験しないと部門トップにならないという枠組みがあってもよいと思われます。
次いで、メンバーのロイヤリティも大切です。所属するメンバーには部門トップのコミットメントに応えるべく、責任感、スピード、1線全体に対するチーム帰属意識が求められます。誠実さを伴う忠誠(integrity)と言ってもよいでしょう。
さらに、メンバーの人材・処遇にも十分な配慮が求められます。この部署には専門知識を持ちロイヤリティも高い優秀な人材が期待されるため、1線の中でもコアと目される人材を登用することが望まれます。引き抜かれる現場からすれば出したくなく、現場から異動を命じられる本人からしてもマーケットに直接対峙するディーリングセクションから企画・管理業務へ異動するのは複雑な思いであることも多いでしょう。業績に応じた成果報酬を導入している組織であれば賞与が減少することで離職につながるおそれもあるかもしれません。
近年は安定的な市場環境が続いていたので、経費削減の観点からマーケットに携わるスタッフを絞ってきた金融機関も多いのではないでしょうか。マネジメントは、十分な人員の確保・育成はもちろんのこと、メンバーのロイヤリティ維持・エンゲージメント向上のために人員をきちんと評価し処遇することも求められます。ディーリングセクションと異なり定量的な評価は難しいかもしれませんが、部門業績に連動した成果報酬制度も必要となるでしょう。また当該部署を経験したら現場に戻れるような人材ローテーションを組むことも求められます。
最後に、必要な情報をすばやく取り出すためのインフラ整備(システム投資)の重要性を挙げておきます。ミッションの性質上、マーケットや取引に関する情報、ポジション・収益の状況などの必要な情報を部門、国境、エンティティをまたいで迅速に収集・分析する必要があり、そのためのデータベース構築・システム投資は必要不可欠となります。直接収益を上げるシステムではないので、これまで経費節減の観点から投資が抑えられたり、優先順位が劣後したりしてきたケースもあるかもしれませんが、この分野への投資は惜しむべきではないでしょう。
1線の企画管理部署は部門トップ(役員)と一体となって部門のあるべき将来像を描き、ガバナンスの強化・インフラ整備、リソースの配分、2線・3線を含む本社機能との調整、当局対応などを一手に担う機能として極めて重要な位置づけです。
証券会社のような業態であれば、よりスピードに重点を置いた組織体制が望ましい場合もあるでしょうし、銀行のように業務が多岐にわたる場合には慎重な社内調整が必要となることもあるでしょう。業態によって濃淡はあるかもしれませんが組織の要となるべき機能であることに変わりはありません。
今後到来する不確実な時代では、誰にも正解は分かりませんし、正解自体ないのかもしれません。そのような中で金融機関の1線が実効性の高い1LoDを構築するためには、専門性を有するスタッフが、常にアンテナを高く張って情報を収集し、いつ何をやり、何をやるべきでないかについて、部門トップ、現場フロントを交え、決め打ちせず、スピード感を持ちながらも最後の最後まで徹底的に議論するという姿勢が何よりも重要と思われます。
※1 Anti-Money Laundering / Countering the Financing of Terrorismの略。マネー・ローンダリングおよびテロ資金供与防止のこと。
※2 2012年に国際的な基準金利であるロンドン銀行間取引金利(LIBOR)の不正操作が発覚したことをきっかけに、パネル行が呈示するレートを一定の算出方法に基づき算出するLIBORについては、米ドルの一部テナーを除き2021年12月末に、米ドルの一部テナーについては2023年6月末に公表停止となった問題。
※3 米投資会社が2021年3月に債務不履行となったことにより、日系金融機関を含む複数の大規模金融機関において総額1兆円を超える損失が発生した事案。同社は、少数の米国および中国のテクノロジー企業やメディア企業に投資するファミリーオフィスと呼ばれる法人であった。
※4 Designated Non-Financial Businesses and Professions:カジノ、不動産業者、貴⾦属商・宝⽯商、弁護⼠・会計⼠等
PwCあらた有限責任監査法人
ガバナンス・リスク・コンプライアンス・アドバイザリー部
パートナー 石井 秀樹
PwCあらた有限責任監査法人
ガバナンス・リスク・コンプライアンス・アドバイザリー部
ディレクター 田村 公二
PwCあらた有限責任監査法人
ガバナンス・リスク・コンプライアンス・アドバイザリー部
チーフ・コンプライアンス・アナリスト 井口 弘一