
自主的なサステナビリティ報告が始まって四半世紀、その間、常に世界をリードしてきたのは欧州でした。欧州委員会は、これまで域内企業が培ってきた取り組みを基礎に、2023年7月、既出のEU企業サステナビリティ報告指令(CSRD)※1の適用に関する委任規則を採択しました。同年12月の官報掲載を経て、欧州のサステナビリティ報告はいよいよ本格的な制度開示となる準備が整いました。
一方、米国では、米国証券取引委員会(SEC)が気候変動と人的資本についての開示を義務化したものの網羅的なサステナビリティ開示とはなっていませんが、民間レベルにおいては、ここ十数年、サステナビリティ報告基準の策定に注力してきた民間団体SASB※2がIIRC※3との統合を経てIFRS財団※4に合流し、従来の財務報告にサステナビリティ報告を組み込む国際的な流れを作ろうとしています。
これまで数多く存在したサステナビリティ報告に関するイニシアティブの成果は、EUのCSRD※5とIFRS財団のISSB※6基準に収斂しつつありますが、設立以来、自主的なサステナビリティ報告に大きな影響を与えてきたGRI※7スタンダードは健在で、そのマルチステークホルダーを意識した報告思想は、CSRDの開示基準に色濃く反映されています。
CSRDとISSB基準は、多くの共通点を持つ一方、大きく異なっているのが開示情報のマテリアリティ(重要性)に対する考え方です。報告制度における情報の重要性は、その報告利用者にとって何が重要かによって決まりますが、ISSB基準が投資家等の意思決定への影響にフォーカスするのに対して、CSRDはGRIと同様、投資家以外のステークホルダーへの影響にも光を当てています。
報告書の想定利用者が違えばマテリアリティが異なり、開示すべき情報も異なってきます。これが両者の大きな違いとなっています。企業は、こうした両者のアプローチの違いを理解した上で、それぞれの法域において適切な対応が求められます。
本稿では、前編・後編の2回に分けて、サステナビリティ報告に関するEUとIFRSの制度概要を整理し、両者のマテリアリティについて考えます。今回の前編では、EUの制度概要とマテリアリティの考え方について整理します。
なお、文中の意見に係る部分および仮訳は筆者の私見であり、PwC Japan有限責任監査法人および所属部門の正式見解ではありませんのであらかじめご了承ください。
EU域内で事業を行う企業は、CSRDに基づき最短で2024年からサステナビリティに関する開示が求められます。
開示が必要になる対象としては、一部の例外を除いて、①旧制度(NFRD※8)の対象企業、②総資産、売上高、従業員数のうち2年連続で2つ以上の要件を満たす企業、③上場中小企業、④一定要件に合致するEU域外企業、およびそれらの企業グループが含まれます※9。
CSRDは、サステナビリティ報告の基本的な枠組みを規定し、そのための具体的なアプローチと開示要求事項はESRS※10によって定められています。ESRSは、図表1のように、横断的な基準、環境、社会およびガバナンスに関する各基準に区分されたトピックについて、TCFD※11の公表したTCFDフレームワークの枠組みが要求する「ガバナンス」「戦略」「影響(インパクト)・リスク・機会の管理」「指標と目標」に倣った要素に関する開示を求めています。
ESRSの開示要求は、気候変動についてはTCFDの枠組みやISSB基準と共通する部分が多く、それ以外に、ISSBがまだ着手していない汚染、生物多様性、従業員、消費者、コミュニティなど幅広いトピックを扱っています。
定められた詳細な開示項目は1,000を超えますが、企業は全ての開示を求められるわけではなく、自社の事業との関わりのあるものに関してマテリアリティを評価することによって、開示すべきトピックを決めることが求められています。
なお、ESRSでは、報告の重複を避けるため、ISSBやGRIと相互運用ができるよう用語が定義されており、開示要求内容の整合を図っています。ただし、前述の通り、各報告制度の想定利用者には違いがある点には注意が必要です。
図表1:ESRS開示基準における4つの要素
ESRS1、2 横断的な基準 |
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ESRSE1~5 環境に関する基準 |
(E1)気候変動 (E2)汚染 (E3)水と海洋資源 (E4)生物多様性とエコシステム (E5)資源の利用と循環型経済 |
ESRSS1~4 社会に関する基準 |
(S1)自社の従業員 (S2)バリューチェーンにおける従業員 (S3)影響を受けるコミュニティ (S4)消費者および最終顧客 |
ESRSG ガバナンスに関する基準 |
(G1)事業活動 |
出所:ESRSをもとにPwC作成
CSRD/ESRSにおいて、多様な情報の中から何を報告すべきかを判断する際には、サステナビリティに関連する財務的なマテリアリティ(財務マテリアリティ)に加えて、企業が環境や社会に与える影響を表すインパクトマテリアリティを考慮しなければなりません。この2つを合わせて、ダブルマテリアリティと呼びます。
ダブルマテリアリティの考え方は、制度の基本的なスタンスとして、財務的側面のみにフォーカスするISSBのシングルマテリアリティとは大きく異なります。ESRSでは、ダブルマテリアリティを考える上で、以下のキーワードを理解しておく必要があります。
この考え方に基づいて特定のサステナビリティ事象がマテリアルであると評価されると、企業は、その事象に関連して要求される情報項目を開示しなければなりません。
ただし、ESRS2で要求される「作成基準」「ガバナンス」「戦略」「影響(インパクト)、リスク、機会の管理」「指標と目標」については、マテリアリティの適用がなく、全ての項目を開示することが求められています。
一方、「環境」「社会」「ガバナンス」の各トピックは、企業活動が社会や環境に与えるインパクトと、サステナビリティが企業に与える財務影響の両面でマテリアリティを判断し、バリューチェーンを含めて自社に関連する情報についてのみ開示することになります(図表2)。
図表2:ESRSにおけるマテリアリティ適用の有無
標準 | 内容 | マテリアリティ適用の有無 |
ESRS2 | 横断的基準 | × |
ESRS E1~5 | 環境に関する基準 | 〇 |
ESRS S1~4 | 社会に関する基準 | 〇 |
ESRS G | ガバナンスに関する基準 | 〇 |
出所:ESRSをもとにPwC作成
ESRSでは、具体的なマテリアリティ判断の詳細なプロセスは示されておらず、企業は、関連する文書を参考にしながら自ら構築しなければなりません。特に、企業が環境や社会に与えるインパクトのマテリアリティ評価については、自社の活動と環境や社会との関わりはさまざまで、尺度や閾値の設定も多様なため、その実践は簡単ではないでしょう。
これに関連し、2024年5月、EU・EFRAG※12が、企業のESRS適用をサポートするための「実施ガイダンスEFRAG IG1マテリアリティ評価(MAIG)」※13を公表しています。このガイダンスは、企業活動による環境や社会へのインパクトと自社の財務リスク・機会との関係を含め、評価プロセスの設例を紹介しながら開示実務に関するヒントを提供しています。
ガイダンスに示されたダブルマテリアリティの基本的なプロセスは、図表3の4つのプロセスから構成されています。なお、図表中のIROとは、Impact(インパクト)、Risk(リスク)、Opportunity(機会)を意味しています。
A~Cの各プロセスでは、ステークホルダーエンゲージメントを活用します。まず、プロセスAでは、影響を受けるステークホルダーを整理し、受ける影響の大きさによって優先順位を付けます。プロセスBでは、ステークホルダーエンゲージメントを通じてIROを識別します。プロセスCでは、インパクトのマテリアリティ判断に際して、深刻度や発生可能性、財務的な影響の閾値設定を考慮する際にステークホルダーエンゲージメントの活用が想定されています。
図表3:MAIGにおけるダブルマテリアリティのプロセス
段階 | 内容 |
プロセスA 文脈の理解 |
事業計画、戦略、財務情報、製品サービス、ロケーション、バリューチェーン、規制、ステークホルダーに関する状況を理解する。 |
プロセスB 実際のあるいは潜在的なサステナビリティ関連IROの特定 |
ESRS1 AR16(Application Requirement 16)のトピックリストをもとに関連IROを識別するほか、企業固有のトピックを追加する。また、GRIセクター基準の活用および既存プロセス(以下)との統合も考えられる。
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プロセスC マテリアルなサステナビリティ関連IROの評価と決定 |
識別した関連IROのマテリアリティを、インパクトおよび財務の両面で評価し、マテリアルなIROを決定する。 【インパクト評価】 深刻度(規模、範囲および回復困難性)や発生可能性、閾値設定を考慮する。閾値の設定においては定性的な評価も可能。閾値に科学的コンセンサスが確立されている場合、詳細分析は不要。 【財務マテリアリティ評価】 財務的な影響額および発生可能性の観点から財務マテリアリティを判断する。2つのステップの結果を統合し、マテリアルなIROをリスト化する。 |
プロセスD 報告 |
マテリアルと評価されたIROに関する、以下の事項を報告する。
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出所:MAIGをもとにPwC作成
企業活動が環境や社会に与える影響(インパクト)には、ネガティブ(-)な面とポジティブ(+)な面があり、それぞれに実在するものと潜在的なものがあります。これらのインパクトを、「深刻度(規模、範囲、回復困難性)」および「発生可能性」によって評価しますが、各々のインパクトについて考慮すべき要素は図表4のように整理できます。
図表4:環境や社会へのインパクト評価で考慮すべき要素
影響 | 規模 | 範囲 | 回復困難性 | 発生可能性 |
実在する(-)インパクト | 〇 | 〇 | 〇 | |
潜在的な(-)インパクト | 〇 | 〇 | 〇 | 〇 |
実在する(+)インパクト | 〇 | 〇 | ||
潜在的な(+)インパクト | 〇 | 〇 | 〇 |
出所:MAIGをもとにPwC作成
しかし、評価対象となるインパクトは実に多様で、環境ひとつとってみても、気候変動、大気汚染や水問題、廃棄物、生物多様性などさまざまな問題がそれぞれに関係し合っており、評価の際のパラメータを設定するのも簡単ではありません。
また、定量評価の際の閾値の設定は企業の判断に委ねられていて、定量化が難しい場合、定性的な評価も認められていますが、評価水準の妥当性や、得られた評価結果の客観性の確保もまた容易ではありません。このインパクト評価が、ESRSに基づくサステナビリティ報告の信頼性の鍵を握っていると言っても過言ではないと思います。
サステナビリティに関連する企業の財務的なリスクや機会は、まず、インパクトマテリアリティの評価の過程で認識された、その要因となる事象を分析します。例えば、温暖化に関連して、事業に悪影響を及ぼす自然災害、温暖化ビジネスとなり得る自社の製品サービス、事業活動に課される温室効果ガス排出規制といった要因について具体的に分析することが求められます。
財務的なリスクや機会を評価する際には以下のような事項を考慮することが考えられます。
なお、サステナビリティ関連のリスクや機会は、発現確率や影響の規模に大きな幅があり、それはバリューチェーン上に現れるかもしれません。さらに、影響が将来に及ぶことも多く、長期にわたる可能性があることから、伝統的な財務報告のマテリアリティ判断に比べ、より広範囲に及ぶことが想定されます。
インパクトと財務、それぞれのマテリアリティ評価が確定すると、その結果の組合せによってマテリアリティが確定します。具体的には、少なくともどちらかの要素がマテリアルなら当該事象はマテリアルと判断され、どちらの要素にも重要性が認められなければマテリアルとはなりません(図表5)。
以上、EUのサステナビリティ報告制度とマテリアリティの考え方について説明しました。次回は、IFRSの制度概要とマテリアリティの考え方を整理した上で、両者の関係や課題を考察して本稿をまとめます。
図表5:マテリアリティ判断の基準
項目 | 評価 | 評価 | 評価 | 評価 |
環境や社会への影響(インパクト)のマテリアリティ :企業が、短~長期にわたって環境や社会に与える、実際の/潜在的な正/負の影響 |
有 | 無 | 有 | 無 |
企業の財務的なリスク・機会のマテリアリティ :関連リスク/機会が、短~長期にわたって与える(合理的予測含む)、財政状態、業績、キャッシュフロー、ファイナンスへのアクセスまたは資本コストへの影響 |
有 | 有 | 無 | 無 |
マテリアリティ判断の結果 | 〇 | 〇 | 〇 | × |
〇:マテリアル ×:マテリアルでない
出所:MAIGをもとにPwC作成
※1 欧州議会および閣僚理事会指令(EU)2022/2464
※2 SASB:Sustainability Accounting Standards Board
※3 IIRC:International Integrated Reporting Council
※4 IFRS:International Financial Reporting Standards
※5 CSRD:Corporate Sustainability Reporting Directive
※6 ISSB:International Sustainability Standards Board
※7 GRI:Global Reporting Initiative
※8 Non-Financial Reporting Directive(非財務情報開示指令)
※9 PwC「CSRD(企業サステナビリティ報告指令)対応支援」
※10 ESRS:European Sustainability Reporting Standards(欧州サステナビリティ報告基準)
※11 TCFD:Task Force on Climate-related Financial Disclosures(気候関連財務情報開示タスクフォース)
※12 EFRAG:European Financial Reporting Advisory Group
PwC Japan有限責任監査法人
基礎研究所 主任研究員
寺田 良二