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株式会社日立製作所フェロー
株式会社ハピネスプラネット代表取締役CEO
矢野 和男氏
PwCあらた有限責任監査法人 代表執行役
井野 貴章
個人が自らの力をどれくらい発揮できるか、その力を組織がどこまで生かし得るかを測る指標として、今、「幸せ」に注目が集まっています。非財務情報である「人的資本」の開示要求が強まる中、財務的観点のみからの評価に収まらない社会価値としての「幸せ」を、企業はどうとらえ、その向上にどう取り組めばよいのか――。「幸せ」の定量化・可視化に取り組む、日立製作所フェローでハピネスプラネット代表取締役CEOの矢野和男氏と、PwCあらた有限責任監査法人代表執行役の井野貴章による、人的資本と幸せをテーマにした対談連載の後編。2人の議論は、監査の可能性を広げる洞察と予見にまで及びました。
井野:
予測不能なコロナ禍の中で企業各社はリモートワークやオンライン会議を余儀なくされ、人どうしの物理的な距離が遠のいた結果、「信頼し合える関係」を組織内で築くことが以前に比べ難しくなりました。空気感が伝わるような緊密なコミュニケーションを取りづらくなったことで、健康不調を訴える社員も増え、「若手が先輩の背中を見て学ぶ」機会も減っています。今、職場でのコミュニケーション態勢の再構築と、それをベースにした人間関係の強化について、戦略を練り直している経営者・管理職の方は少なくないと想像されます。ご助言があれば、ぜひ。
矢野:
コロナ禍に伴う諸制約に対応してコミュニケーションの利便性が飛躍的に高まり、それを享受できる業務環境も急速に整備されました。しかしその中で果たして、「信頼し合える関係」の構築を意識した運用がどれくらい行われてきたでしょうか。いろいろな弊害はこの点から生じているような気がします。
「信頼し合える関係」や「よい組織」をどう築いていくか。この問いに対する答えの本質は、コミュニケーションの「量」ではなく「質」にあります。重要なのは「組織内で誰と誰がどのようにつながっているか」という構造です。
前編でもお話したとおり、A、B、Cという3人のうち、AがB・Cそれぞれとコミュニケーションを取り、BとCの間ではコミュニケーションがない状態、つまり「V字形」の構造になっている場合、情報伝達の効率には優れていますが、これは「コミュニティ」ではありません。ABCいずれの間でもコミュニケーションが交わされる「三角形」が形成されて、初めてコミュニティが成立します。私たちの研究では、V字構造の頂点にいるAの立場の人はメンタルヘルス不調に陥る可能性が高いこと、逆に、三角形の構造が多く形成されている組織ほど各人の「幸せ」を実現しやすく、全体の生産性が向上しやすいことが分かっています。
自社の組織の中で、どうすればV字構造を減らし、三角構造を増やせるのか。そのための仕掛けや仕組みづくり、コミュニケーション手段の運用について、試行錯誤が求められていると思います。
井野:
対談の前編で、信頼関係の成立を前提にした「心の資本」の重要性を指摘されました。「心の資本」の向上が企業の業績にどう影響するのかといった点についても、定量的な分析・研究が進んでいるのでしょうか。
矢野:
心理学、経営学など、さまざまな分野で研究されています。当社でもさまざまなデータを提供しています。受注率・離職率・エンゲージメントスコアなどと、人や組織・人間関係の状態との相関関係をデータで確認できますし、因果関係が時系列で明らかになることもあります。
井野:
データの因果関係と相関関係というお話ですが、「“心の資本”が○○ポイント上がると、営業利益率が××ポイント上がる」といった結果が示されたとき、それが因果関係なのか相関関係なのかは、実は私たち監査人が企業の会計監査をするうえで大きな分水嶺になる点です。
因果関係であれば、証明すべきロジックがそこにあることになります。一方、相関関係であれば、「その関係を説明できるものは何か」、さらには「隠れているパラメーター(変数)はないのか」といった掘り下げた議論がさらに必要になりそうです。
因果関係をどう説明していくかは、成功パターンを再現しなければならない経営にとっても重要な課題です。相関を超えた因果をどう説明していくのか――これこそ、予測不能の時代に私たち誰もが直面する本質的な課題でしょう。この課題は、「人的資本」「環境問題」といった非財務情報の開示に対する保証をどう行うかという監査の重要な論点にもつながるのです。
矢野:
確かにそうですね。因果関係の説明については、私も長年頭を悩ませてきました。
井野:
企業の事業活動では、お金が動けば必ず何かが起きます。これまでの会計は分かりやすい因果関係を扱う議論をしていました。しかし、非財務情報の開示要求が強まる現在は、「いまだカウントされていないもの」の影響をどのように説明するかという議論が求められているように感じます。これは、私自身が一会計学徒として探究していきたいテーマです。ただし一方で、「それは考えても仕方がないのではないか」との立場があるのも事実です。
矢野:
再現性が高く、繰り返し起きることについては、過去のデータとそれから見えるパターンを大切にすべきです。他方、人間の嗜好、経済、戦争や自然災害のような、予測不能で不確実な現象に向き合ったときのデータについては、社会は使いこなしているとは言えません。そもそも、世界は予測不能に変化するものです。だからこそ、ドラッカーが言うように、「予測せざることを起こさせることが可能」なのです。
「人的資本が豊かならば、本当に企業価値が高まるのか」という因果関係の立証に使う時間があるのなら、「人的資本が企業価値につながる因果関係をつくる」ことに知恵を絞ったほうがよい。つまり、自ら因果関係を意思をもって創りだすということです。未来をつくるのは私たち一人ひとりの行動です。その意味で、人や組織の「幸せ」も能動的に実現を目指すべきものだと思います。
井野:
今のお話は、一経営者として腹落ちしました。また、一監査人としても、投資と将来の成果における因果関係を実現・再現しようとする経営の努力に焦点を当てることが有益だと感じました。
つまり、因果関係といっても、非財務情報の検証では、本当に影響するパラメーターのすべてを把握できるわけではありません。直接立証が困難な因果関係にこだわって監査の着眼点を探っていると、本質を見失うおそれがあります。それよりむしろ、因果関係を実現・再現しようとチャレンジしている経営者の本気の努力、職員の対応、そういう姿勢にこそ着目するべきです。
これは、体制・手続き・公式・仕組み・KPIといった枠組みや数字で表される人的資本の様子の開示だけでなく、「どれだけ魂の入ったことが起きているのか」に注目するということです。私たち監査人は、経営のそんな「本質的な努力」に関心を寄せるべきだと、改めて思いました。
矢野:
企業の将来収益と「人的資本」の指標を結び付ける因果関係をつくること。あるいは、時価総額につながる「人的資本」を実現すること。そうした取り組みに責任をもって邁進することが、これからの企業経営には大切だと思います。
井野:
企業は自ら因果関係をつくり、監査人はそのプロセスにしっかり目を向ける――この総論については多くの方が共感してくださると思います。
ただ、そうした成果の実現を目指した経営をしていくときに、投資家は経営陣に対し「そのベネフィットはいつ生じるのか」の説明を求めてきます。「世代を超えた長期的な投資」が必要不可欠になる一方で、この点についての投資家との対話が難しいとの問題意識が経営者にはあります。営業利益率と「心の資本」の相関性に関する研究は、この課題に対して何らかの示唆を与え得るでしょうか。
矢野:
1つ言えるのは、「変化を前向きにとらえ、機会に変える」という「心の資本」の力は、さまざまな変動要因への対応能力でもあるということです。
例えば新型コロナウイルスに関して、“第○波”の感染拡大が終息した後に、いつまた毒性の強いウイルスへの変異が起こり次の波が襲ってくるか、誰にも分かりません。そんな予測不能の事態に際して「心の資本」の力を欠いていると、過去に実施した対応を繰り返すばかりで状況の変化に取り残され、気づいたら手遅れという事態に得てして陥ります。「心の資本」はそうならないための、ボラティリティ(変動率)に対するレジリエンス(適応力)でもあるのです。
井野:
私たち監査人の立場では、「同じことが同じように処理されている」ことを求めます。既存のルールや内部統制によって「安定的な経営」が担保されていることを是とするのが、会計監査の考え方です。ただし、“安定的”とは“固定されている”ことでもあり、今後、否応なしに直面するであろう数々の予測不能な変化を前向きにとらまえ続けるには、既存の仕組みに加えて「やらされ感のない熱のある“何か”」が必要と感じていました。
そんなときに矢野さんの著作を拝読し、生き残ることとは選択肢をどれだけ広げられるかという闘いであると痛感しました。変化の激しい時代に生き残ることを命題に幸せを考えれば「幸せとは状態ではなく行為である」「変化を機会に変える行為こそが幸せである」、という矢野さんが言われる変化の理論がとても印象的でした。
このような定義における、ビジネスパーソン一人ひとりの「幸せ」の実現、そして非財務情報の開示に伴って要請される「人的資本」の充実が、変化の激しい時代に生き残る企業にとって不可欠です。「安定」「効率化」と「幸せ」「人的資本」、これらのベストバランスを見極めることが、これからの企業経営の舵取りと言えるのでしょう。「幸せ」や「人的資本」は、ともすると「効率化を阻むもの」と誤解されるかもしれませんが、私たち監査人は決して表層的な考えにとらわれてはならないと感じます。
矢野:
まさにそうですね。同時に、先ほどおっしゃった「安定」や「効率化」のリスクもしっかりと認識しておく必要があると思います。効率化の追求には、人や組織をかえって硬直化させ、「これまで通りでよいはずだ」という思考を蔓延させ、変化を避けるかのような空気を醸成するリスクがあります。そのようなリスクも含めて、内部統制でチェックできるようになるといいですよね。
井野:
重要なご指摘です。これまでの内部統制の多くは「先行した失敗事例の再発を防ぐ」という対症療法的なものでした。これからの内部統制には「これから起き得ることを考慮して、足りていない対応を追加する」というリスク管理の要素が強調されるべきと考えています。
今日の議論を通じ、予測不能の時代に必要となる新たな思索の下に、ガバナンスに本気で取り組み、適切なディスクロージャーと対話を進めることにより、「幸せ」と効率化のバランスが取れた最適解が見えてくるとの希望を持ちました。
財務情報だけでは測ることのできない社会的価値としての「幸せ」をどう評価するか。今回の対談で財務会計の未来のあり方のヒントをいただけるのではないかと考え、矢野さんとお会いするのを楽しみにしていました。
実際に対談をさせていただき、多くの示唆が得られましたが、とりわけ首肯したのは「因果関係は探すものではなく、実現・再現しようとすることこそが最も重要」というお話です。監査人として見ていかなければならないことを再確認するとともに、人と組織の「幸せ」の実現や「人的資本」の充実を促進するような監査の視点を確立していきたいという想いを新たにしました。
早稲田大学大学院修了(物理学修士)後、日立製作所入社。1993年単一電子メモリの室温動作に世界で初めて成功し、ナノデバイスの室温動作に道を拓く。2018年より現職。現在、AIや社会におけるデータ活用の研究に従事。心理学やAIからナノテクノロジーにまで至る専門領域の広さ・深さで知られる。
大量のデータから幸福力を定量化する技術の開発を行い、その事業化のために2020年に株式会社ハピネスプラネットを設立、代表取締役CEOに就任。
1991年中央新光監査法人に入所。1997年よりクーパース&ライブランド ニューヨーク事務所の保険業担当部門へ出向。2004年に中央青山監査法人の社員、2007年にあらた監査法人(現PwCあらた有限責任監査法人)の代表社員に就任。2014年に執行役として品質管理担当に就任後、2018年から人事担当、2019年から執行役副代表を経て、2020年7月に代表執行役に就任。
※ 法人名、役職、本文の内容などは掲載当時のものです。