{{item.title}}
{{item.text}}
{{item.title}}
{{item.text}}
株式会社日立製作所フェロー
株式会社ハピネスプラネット代表取締役CEO
矢野 和男氏
PwCあらた有限責任監査法人 代表執行役
井野 貴章
「人的資本」がビジネスにおいて重要性を増しています。改訂コーポレートガバナンス・コードに関連情報の記載が盛り込まれたほか、有価証券報告書での可視化や開示の指針の議論が進むなど、人的資本への投資はサステナビリティ経営の重要な要素に位置付けられています。そうした動きの中、企業価値の新たな評価軸としての可能性が注目されつつあるのが、「幸せ」という概念です。財務業績だけでは測れない社会価値としての「幸せ」を、企業はどうとらえ、その増進にどう取り組めばよいのでしょうか。
「幸せ」の定量化・可視化に取り組む、日立製作所フェローにしてハピネスプラネット代表取締役CEOの矢野和男氏をお迎えし、PwCあらた有限責任監査法人代表執行役の井野貴章とともに、財務情報を超えた「幸せ」を起点とする新たな企業価値をいかに創出できるか、意見を交わしました。
井野:
私たちを待ち受けるのは「予測不能の時代」といわれます。これは矢野さんのご著書のタイトルでもありますね。変化が激しく、先を見通せない中でやはり注目されるのは、「人」の力ではないでしょうか。企業が持続的な成長を実現するには、人が価値を生み出す力を改めて企業価値創造の柱に据える必要があると私は考えます。
まず、矢野さんは「人の力」をどのようにとらえていらっしゃいますか。
矢野:
予測不能の時代、企業の成長にとって重要なのは「人の成長」です。このために“前向きな”人づくりへの投資が求められます。そして、この前向きなエネルギーを持つことこそ、ウェルビーイングの中核にある力です。
企業における人材は、代替が容易な「人的資源」から、その人ならではの貢献ができる「人的資産」へと成長しますが、ここで止まらずに、自ら成長し花を咲かせる「人的資本」にレベルアップする必要があります。この「人の成長」に投資することが重要なのです。
近年のポジティブ心理学の研究は、「幸せな人や組織は生産性が高い」ことを明らかにしました。創造的な価値を生み出す人材にとって、報酬は衛生要因(不足していると不満の原因となる要因)でしかありません。業務を通じて、前向きに人と協力し成長することで、自らの「幸せ」を収益に結びつけているのです。
「幸せ」という、揺らぐことのない大きな目的を持ちながら、挑戦と学習を常に繰り返し、不確実な状況下でも新たな道を見つける──そんな“前向きな”人材の価値こそが、私が考える「人的資本」です。
井野:
財務会計では「人が生み出す将来の価値」を資産計上しません。客観的な評価が困難なうえ、「人的資本」は最終的に従業員個人に帰属するものであり、企業のものではないことなどがその理由です。そこで、人への支払いは「コスト」と認識され、人への「投資」と、それによって生み出される将来価値である「リターン」との関係性を会計的に評価することはありませんでした。1年ごとの小さな変化を比較しているうちは、それでも用が足りました。
しかし現在はどうでしょう。2050年のカーボンニュートラルの達成が目標とされたり、AIのシンギュラリティ(AIが人類を超える技術的特異点)の2045年到来が予測されたりするなど、従来とは比較にならない長射程のスコープでリターンやリスクをとらえた企業の対応が求められています。人の成長を語り比較するに十分な期間を視野に入れた活動です。そうした中、私は、人が生み出す将来価値についても、会計的な評価が必要だと考えるようになりました。
今の若い世代やさらにその次の世代は、大きな社会変革を乗り越えていかねばなりません。彼らのために、会計はどのような“武器”を提供できるか。会計の基準が古いままでは、新しい時代の利害を調整できません。超長期の見積もりをどうやって行い、それをどう判断・評価するのか、そのための思想を提示できれば、会計は次の時代にも”武器”になる。これは、企業がどう生き残るのかという論点にもつながると思います。
矢野:
確かにそうですね。若い世代が年長者と異なるのは、「時間」という資産を持ち、これからの社会を中長期にわたり自分ごととして考えることができるという点です。
私は2020年7月、データに基づく生産的で幸福な組織づくりを目的に、日立製作所から「出島会社」として3社の出資でハピネスプラネットを設立しました。従業員は20人弱のスタートアップで、若手も多いです。日本の企業では経験に応じ徐々に責任の重いポストを任せるのが常道ですが、このような新興企業では開発・営業から財務や経理、総務・人事まで、あらゆることに若手が力を発揮しなければ組織が回りません。実際、若い人たちに責任ある仕事を任せ、リスクを取るチャンスを与えると、目を見張るような活躍をしてくれます。私たち年長者には、会計のあり方も含め、若い世代の潜在的な力を引き出し、活性化させる仕組みづくり、組織づくりが求められているのではないでしょうか。
井野:
まさに人の力を活性化させる経営ですね。とはいえ、少人数経営が常に少数精鋭になるわけではありません。矢野さんの下に集まった皆さんは、お一人お一人、「幸せ」のとらえ方も大いに変化したのではないでしょうか。
矢野:
変化し、認識がより深まったはずです。一般論として、従来は「仕事がうまくいく→幸せ」「健康である→幸せ」という思考が多数派でした。しかしデータ上でも明らかなのですが、逆の因果関係のほうがはるかに強い。つまり、「幸せである→仕事がうまくいく」「幸せである→病気になりにくい」のです。ここで言う「幸せ」は、“楽”や“緩い”状態のことではなく、前向きな精神的エネルギーを持っている状態、あるいは人との絆や信頼関係が構築できている状態です。
この因果関係で行動できる人は「心の資本」を持つ人です。当社の若手も含め若い世代には、この、“実は逆の因果関係”へと思考を切り替えてくれることを期待しています。
井野:
矢野さんはご著書の中で、「幸せとは大事なことに挑戦する原資である」「変化を機会に変える行動が幸せとなる」とおっしゃっています。これは、人間が働くこと・生きることの厳しさと喜びを表現なさった言葉だと理解しますが、とても心に残りました。
この背景にあるのが、膨大な研究から導かれた「FINE(ファイン)」「HERO(ヒーロー)」という概念ですね。この2つを軸とする「人的資本マップ」の活用を提唱なさっています。
矢野:
生産的で「幸せ」な組織や集団とそうでない組織を分ける、業種や業界を問わない要因が特定できています。その1つがメンバーどうしの関係性です。実は、あなたがよく話をしている2人なのに、その2人どうしは話さない関係(「V字型」)があると、あなたは落ち込みやすくなるのです。この2人どうしがよく話す関係であれば「三角形」ができます。この「V字」か「三角形」のどちらが多いかが、生産的で幸せな組織とそうでない組織を分けるのです。
さらに、この生産的で幸せな組織には、コミュニケーションに次の4つの特徴があることがこれまでの研究で分かっています。
頭文字を取って「FINE」と呼びます。三角形でつながるFINEな集団は、指示や回答などの用件だけでない、コミュニティや仲間としてのつながりができている集団です。
さらに、組織行動学の権威であるフレッド・ルーサンス教授は、スキルとして身に付けられる幸せになる力を、次の4つの尺度で整理しました。
ルーサンス教授はこの4つを合わせて「心の資本」と呼びました。頭文字を取って「HERO」と呼び、組織の生産性に強い影響を持つことも検証しました。
「FINE」と「HERO」の尺度を組み合わせることで、人や組織の価値である「人的資本」を定量化・可視化したものが「人的資本マップ」です。これを用いれば、生産的で幸せな組織づくりに向けた継続的なモニタリングや診断が可能になり、具体的な施策を講じられます。
井野:
「人的資本マップ」はさまざまな企業で組織マネジメントに活用され始めていると伺いました。手応えはいかがですか。
矢野:
すでに100社を超える組織で、この知見に基づいた組織づくりが行われています。「真面目に働いて利益を出せば、豊かになって幸せになれる」――これが従来の「幸せ」の価値観でした。しかしこれらのデータに基づく知見が明らかにしたのは、その逆の価値観です。
つまり、「一生懸命に働くことで、前向きな精神的エネルギーを生んで周りとつながり合い、成長の実感がインセンティブになるからこそ、創造的な価値を生み出すことに邁進できる。その結果、組織に利益をもたらす。それが個人にフィードバックされて、大きな挑戦への機会を拡げる」というものです。経済的に成熟した日本のような国では、このような価値観・好循環が大切です。
「人的資本マップ」は、個人の「前向きな心」(=心の資本)を縦軸に、組織の「信頼できる関係」(=ハピネス関係度)を横軸に取った4象限のマトリクスで表されます。これにより、例えば個人は前向き(「心の資本」の値が高い)なのに、組織の人間関係がぎすぎすしている(「ハピネス関係度」の値が低い)ことが分かれば、先ほどの「FINE」の観点で具体的な改善策を打てます。部署やチームを単位とした利用が多い一方で、全社的な「見える化」を目的とした組織マネジメントにも活用されています。自分たちの居場所を明らかにし、目指す方向との差異を詰める方法論なのです。
井野:
現在、世界中の企業が直面している大きな課題の1つが「人材の定着」です。「心の資本」と「ハピネス関係度」の値が高い、つまりその組織が「幸せ」を実現できていれば、人材を呼び寄せ定着させるインセンティブになるはずです。その意味でも「人的資本マップ」による「幸せ」の定量化・可視化は、企業にとって有用性がありますね。
ただし、こうしたことが理屈では分かっていても、従来の価値観からなかなか抜け出せない経営者は決して少なくないと想像されます。これまで日本の経済・社会が、矢野さんがご指摘になる「従来の幸せ」の価値観で回ってきた以上、無理のないことかもしれません。しかし、この予測不能の時代に企業経営を未来へと導くには、やはり発想の切り替えが必須でしょうか。
矢野:
従業員が離職する主因は人間関係です。20世紀には、人々は農村や企業などのコミュニティに帰属することで心の支えを得ていました。しかし人と人とがつながるコミュニティは、効率性の追求の中で失われ、それに伴い人間関係も希薄になり、企業組織内では個人が“歯車化”してしまった。「人的資産」としてならそれでも機能するかもしれませんが、予測不能で不確実な時代には、それが“不良資産”になるおそれもあります。ゆえに、人材を「人的資本」に変える本質的な発想の転換が必要なのです。
井野:
PwC Japanグループもそうした本質的な転換に向けた動きとして、クライアントや社会の課題を解決するために必要なことを根本から見直し、「Trust」(=信頼を構築すること)と「Sustained Outcomes」(=現在そして将来にわたって価値を生み出し続けるためのゆるぎない成果を実現すること)を目指す経営戦略「The New Equation」を掲げています。
これまでの会計監査やコンサルティングでは「最終成果物や報告書を提出したら完了」でした。安定した社会状況であればそれでよかったのかもしれませんが、予測不能の時代においては、「デリバリーして終わり」ではなく、その先に「ゆるぎない成果」を生み出し、持続的な成長を実現することを目指さなければなりません。そして、予測不能だからこそますます重要となる「信頼」の構築を支援することも不可欠です。この2つの重大なニーズにコミットすることが、結果として私たち自身の持続的な成長と信頼の構築をも実現するのだと考えています。
人材についても同様に、単に人員を増やすということではなく、一人ひとりが成長し、確かな成果を生み出せるようになることを重視しています。
矢野:
なるほど。成果を生み、信頼を構築することで、さらに次の成果につながっていくという循環的な発想ですね。そこから私は「利益と幸福の循環」をイメージしました。人はしばしば、「利益を出そうとすれば、何らかの幸福を我慢しなければならない」と、利益と幸福をトレードオフで考えることがあります。しかし実は、利益と幸福は循環で考えるべきなのです。より前向きに取り組むことが人にとっての幸せであり、その結果として利益が出る──そんな好循環を実現するビジネスへの転換が、今の私たちに求められているのだと思います。
※後編に続く。
早稲田大学大学院修了(物理学修士)後、日立製作所入社。1993年単一電子メモリの室温動作に世界で初めて成功し、ナノデバイスの室温動作に道を拓く。2018年より現職。現在、AIや社会におけるデータ活用の研究に従事。心理学やAIからナノテクノロジーにまで至る専門領域の広さ・深さで知られる。
大量のデータから幸福力を定量化する技術の開発を行い、その事業化のために2020年に株式会社ハピネスプラネットを設立、代表取締役CEOに就任。
1991年中央新光監査法人に入所。1997年よりクーパース&ライブランド ニューヨーク事務所の保険業担当部門へ出向。2004年に中央青山監査法人の社員、2007年にあらた監査法人(現PwCあらた有限責任監査法人)の代表社員に就任。2014年に執行役として品質管理担当に就任後、2018年から人事担当、2019年から執行役副代表を経て、2020年7月に代表執行役に就任。
※ 法人名、役職、本文の内容などは掲載当時のものです。