サステナビリティの問題への関心が高まっていますが、ESG(Environment、Social、Governance:環境、社会、ガバナンス)のSに関するものとして「ビジネスと人権」に関する議論が進んでいます。欧米諸国を中心に、企業に人権に関する法的な義務を課す法令の制定が続いており、日本企業にも大きな影響が生じることが想定されます。本稿では、「ビジネスと人権」に関する国際的な動向及び日本政府が昨年10月に策定した「『ビジネスと人権』に関する行動計画(2020-2025)」の概要を確認し、日本企業への影響・対応についても解説します。
近年、先進諸国を中心にビジネスと人権に関する国別行動計画や法規制の制定が行われており、2020年10月、日本政府も「『ビジネスと人権』に関する行動計画(2020-2025)」(以下、「本行動計画」といいます)を策定しました。これら国連での各国における国別行動計画の策定、法制化は、2011年に採択された「ビジネスと人権に関する指導原則」(以下「指導原則」といいます)を契機としています。
従来、人権問題は、主に国家と市民との間の問題と考えられてきました。しかし、企業が社会・市民に及ぼす影響力の拡大を受けて、企業活動から生じる人権に対する負の影響を防ぐためのルールが必要と考えられるようになり、採択されたものが指導原則となります。指導原則自体は法的拘束力を有しないいわゆるソフトローですが、指導原則に示された内容が各国において法的拘束力のあるハードローとして制定されています。
指導原則は、「自らの活動を通じて人権に負の影響を引き起こしたり、助長することを回避し、そのような影響が生じた場合にはこれに対処する」こと、「たとえその影響を助長していない場合であっても、取引関係によって企業の事業、製品またはサービスと直接的につながっている人権への負の影響を防止または軽減するように努める」ことを、企業に求めています(指導原則13)。具体的には、人権を尊重する責任として、①コミットメント、②人権デュー・ディリジェンス及び③救済措置の3点が求められます(指導原則15)。
企業には、まず、方針の声明を通して、その責任を果たすというコミットメントの明確化が求められます(指導原則16)。
人権デュー・ディリジェンスとは、人権への負の影響の特定・防止・軽減・対処を目的とするものです(指導原則17)。デュー・ディリジェンスといっても、M&Aなどの取引の際に行う各種リスク等の精査・評価ではなく、企業として果たすべき相当な注意や努力を意味します。自社事業の人権に与える影響を評価し、評価を踏まえた取組みを実施し、追跡調査を行うというプロセスを継続的に実施することが求められます。
企業が引き起こし、あるいは寄与した、人権に対する負の影響に関して、その是正手段を整備するか、整備に協力することが求められます(指導原則22)。このような是正手段には国家による裁判等の司法的な救済も含まれますが、各企業における苦情処理の制度(グリーバンスメカニズム)も含まれています。
指導原則に基づき、各国において国別行動計画が策定され、サプライチェーンを含む奴隷労働・人身取引に対処する規制の法制化が進んでいます。近年の代表的な規制については、図表1に挙げています。外国の規制についても、日本企業が現地で事業を行う場合には直接的に適用を受けることがあり得るほか、直接適用を受けなくとも、規制の適用を受ける現地企業と行う取引の契約条件に反映されることにより実質的な適用を受けることもあり、日本企業にも影響が生じています。
具体的な規制内容は、各国の個別の法令により異なりますが、おおむね、自社の事業やサプライチェーンについて検証を行い、奴隷労働、児童労働や人身取引が行われないことを確保するための計画や措置を策定・実施し、政府機関への報告あるいは自社のウェブサイト等を通じた公表が求められる点が共通しています。
指導原則においては、人権デュー・ディリジェンスの実施が企業に求める具体的な行為の中心となっていますが、同原則自体は法的拘束力を有しないものです。しかしながら、法的拘束力のある各国の法令にて、一定規模の企業において人権デュー・ディリジェンスを行うことが義務化される動きが進みつつあります。
上記1のような国連及び諸外国における「ビジネスと人権」に関する議論の状況を踏まえ、日本政府も、2020年10月16日、本行動計画を策定しました※1。
本行動計画においては、その「第2章」において、政府が具体的に取り組むべき事項が掲げられています。政府が具体的に取り組むべき事項については、まず、分野を横断して取り組むべき課題である「横断的事項」を掲げたうえで(後記(2))、個別に取り組むべき主要な3つの分野が挙げられています(後記(3))。
本行動計画における分野別行動計画(第2章(2))においては、まず、横断的に取り組むことが適切と考えられる事項につき、既存の制度・これまでの取組を前提に、今後行っていく具体的な措置が挙げられています。
政府が行うとされる具体的な措置は以下のとおりです。
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政府が行うとされる具体的な措置は以下のとおりです。
政府が行うとされる具体的な措置は以下のとおりです。
政府が行うとされる具体的な措置は以下のとおりです。
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前記1の(1)のとおり、指導原則が企業に人権を尊重する責任として求める事項を、①コミットメント、②人権デュー・ディリジェンス及び③救済措置の3つの観点に分類していることを踏まえて、本行動計画においても、個別の分野において行うべき取組を、①人権を保護する国家の義務に関する取組、②人権を尊重する企業の責任を促すための政府による取組及び③救済へのアクセスに関する取組の3つの取組に分類して整理をしています。
個別的事項として掲げられているもののひとつとして、「人権を保護する国家の義務に関する取組」が挙げられています。政府が行うべき取組の項目として、具体的には、①公共調達、②開発協力・開発金融、③国際場裡における「ビジネスと人権の促進・拡大」、④人権教育・啓発が挙げられています。
例えば、上記「①公共調達」に関して政府が今後行っていく措置として、以下の事項が掲げられており、公共調達の場面を通じて、企業においても、人権を尊重する取組が求められることになります。
個別的事項の2つ目として、「人権を尊重する企業の責任を促すための政府による取組」が挙げられています。このうち、企業において特に注目すべき措置の内容としては、政府として、「業界団体等を通じた、企業に対する行動計画の周知及び人権デュー・ディリジェンスに関する啓発による責任ある企業行動の促進」という事項が挙げられます。
政府においては、今後行っていく具体的な措置として、「業界団体等を通じた、企業等への本行動計画の周知・サプライチェーンにおけるものを含む人権デュー・ディリジェンスに関する啓発を実施していくことにより、責任ある企業行動の促進を図っていく」旨を掲げています。
また、あわせて、「OECD多国籍企業行動指針」の周知の継続も具体的に行う措置として掲げられています。本行動計画が公表される前から、日本も参加する「OECD多国籍企業行動指針」において、企業の人権尊重責任に関する規定が設けられていました。また、OECDはデュー・ディリジェンスの実施に関して、鉱物、農業及び衣類・履物のサプライチェーンを対象としたセクター別のデュー・ディリジェンス・ガイダンス等※3も作成しており、2018年には、分野を問わずに企業が利用できる実用的なツールとして「責任ある企業行動のためのOECDデュー・ディリジェンス・ガイダンス※4」が公表されています。政府としては、これらの周知を継続して行うこととしています。
個別的事項の3つ目として、「救済へのアクセスに関する取組」が挙げられています。今後行っていく具体的な措置としては、例えば、訴状等のオンライン提出、関係者の現実の出頭を要しないweb会議等を利用した民事裁判手続のIT化を図るための民事訴訟法等の改正、技能実習法、公益通者保護法等の個別法令に基づく対応の継続・強化等が挙げられています。
日本において本行動計画が策定されたとしても、必ずしも数年内に法的な義務のある法制化が行われるとは限りません※5。もっとも、たとえ日本において国内法が制定されないとしても、前述のとおり諸外国においては人権デュー・ディリジェンスの実施等を法的な義務として企業に課す法整備が進んでおり、その対象に日本企業も含まれうることに注意が必要です。
そのような法令が制定されている国に現地法人・拠点を有している場合に限らず、当該国との事業を行う場合にも、日本法人たる企業にも法的な義務が課される可能性があります。また、法的義務の対象となる人権デュー・ディリジェンス等について、当該国ないし日本に限らず、第三国のサプライチェーン等が含まれうることとなります。この結果、例えばEUの法規制により、EUにおける事業を行う日本法人が、東南アジア等の新興国におけるサプライチェーン上の人権問題に関する人権デュー・ディリジェンスを法的に求められるといったことも考えられます※6。贈収賄規制において、米国海外腐敗行為防止法(Foreign Corrupt Practices Act)により新興国における公務員に対する贈賄行為によって日本企業が制裁金を課される例のように、先進国の法規制により新興国における問題の法的責任を問われうるわけです。日本企業も多く進出している東南アジア等の新興国では、現地法令による労働条件の規制が必ずしも十分ではない国も散見される※7ほか、児童労働、強制労働の事例がこれまでにも多く指摘されていることに注意する必要があります。
日本企業の人権分野における取組み状況を見ると、人権の尊重に関する方針の策定や苦情処理・救済メカニズムの導入についてはすでに相当割合の企業において対応がなされています。一方、人権デュー・ディリジェンスに関しては、まだ取組みが進んでいない企業が多いように見受けられます※8。日本企業、特にグローバルに経済活動を行う企業においては、自社グループへの適用の有無・可能性を含めて、ビジネスと人権に関する法制の国内外における動向を把握しつつ、人権デュー・ディリジェンスの取組みを進めることが必要となります。
※1 https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/press4_008862.html
※2 人の密輸・人身取引及び国境を越える犯罪に関するアジア・太平洋地域の枠組み
※3 各分野別のガイダンスについては、以下の外務省のウェブサイトの「5.OECD多国籍企業行動指針及び関連文書」「(3)デュー・ディリジェンス(自企業が引き起こす又は一因となる実際の及び潜在的な悪影響を特定し、防止し、緩和するための一連のプロセス)を実施するために参考となりうるガイダンス」(https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/csr/housin.html)参照。
※4 https://mneguidelines.oecd.org/OECD-Due-Diligence-Guidance-for-RBC-Japanese.pdf
※5 先進諸国における例を見ると国別行動計画制定の前後において法制化が行われる傾向があります。もっとも、本行動計画については、将来の法制化及びその検討が明記されていません。
※6 現在、EUにおいて人権デュー・ディリジェンスを法的な義務とするEU指令の制定が議論されています(https://www.europarl.europa.eu/doceo/document/JURI-PR-657191_EN.pdf)。EU域内において事業を行う限り、EU加盟国に拠点を有しなくとも適用されることが想定されるほか、人権デュー・ディリジェンスの対象として、サプライチェーンよりも広汎なバリューチェーンを設定するなど、加盟国において国内法化された場合の影響が大きいことが見込まれ、今後の動向に留意する必要が高いものと考えられます。
※7 指導原則は、国際的に認められた人権を尊重することを求めており、ある国の制定法が国際的に認められた人権水準に到達していると認められない場合には、当該国の制定法を遵守するのみでは、人権デュー・ディリジェンスの義務を果たしているとは扱われないことになります。
※8 一般社団法人日本経済団体連合会「第2回企業行動憲章に関するアンケート調査結果」(2020年10月)(https://www.keidanren.or.jp/policy/2020/098_honbun.pdf)。なお、「企業行動憲章に関するアンケート調査結果」(2018年7月)(https://www.keidanren.or.jp/policy/2018/059_kekka.pdf)においても、人権デュー・ディリジェンスに関連する項目に取り組んでいる企業が30%程度にとどまると指摘されていますが、第2回においても同様の傾向が見られます。
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