2023年10月11日、東京証券取引所はカーボン・クレジット市場を開設しました。類似の取り組みはこれまでもいくつかありましたが、東京証券取引所が扱うのはボランタリーなクレジットながら、政府のGX推進戦略とも連動して今後の進展が注目されます。
東京証券取引所のカーボン・クレジット市場は、いわゆる「カーボンプライシング」の一環で設置された市場で、近年、この概念が注目されています。海外では欧州をはじめとして規制を伴う制度として拡大しつつあり、日本においてもそうした情報を耳にすることが多くなってきました。
そこで本稿では、長年にわたりその必要性は議論されつつも、経済活動に完全には取り込まれてはこなかった温室効果ガスにあえて価格を付けるというこの特殊な概念を理解するために、基本的な情報を整理した上で今後の展開を考察します。なお、文中の意見に係る部分は筆者の私見であり、PwC Japan有限責任監査法人および所属部門の正式な見解ではありませんので予めご了承ください。
カーボンプライシングの考え方は、1990年代に欧州各国で導入された炭素税や京都議定書に規定された京都メカニズムに端を発しています。具体的には、温室効果ガスに価格を付け、その排出コストや削減価値を市場に取り込むことによってコスト効率的な削減を促進しようとする行動のことを言います。
価格付けするといっても、特別何かの役に立つわけでもない温室効果ガス自体に経済価値はありません。そこで以下のような温室効果ガスの排出に対して意図的に価格付けする仕組みを作り、その価格を市場に反映させます。
カーボンプライシングの仕組みには規制的なものと自主参加型のものがあります(図表1)。例えば、日本をはじめ各国が導入している炭素税は典型的な規制であり、EU排出量取引制度(EUETS)や東京都の同制度も規制を伴います。一方で、経済産業省等が運営している「J−クレジット」や海外削減による二国間クレジット制度(JCM)は自主参加型です。
また、そうしたもの以外にも民間運営のボランタリーなクレジットや、組織内で温室効果ガスに仮想的な価格付けを行うことによって削減行動の参考とする取り組みもあり、その具体的な手法は図表1に挙げているように多様なものとなっています。
本稿では、その中でも今後の規制動向が気になる炭素税と排出量取引を掘り下げます。特に、排出量取引は海外で排出規制(キャップ)を伴う制度が増えており、日本でも今後、2026年頃を境に国レベルでそうした制度の導入に向かう可能性があるため、情報は収集しておくとよいでしょう。
炭素税は、石炭・石油・天然ガスといった化石燃料に対して、重量・体積・炭素含有量などを課税標準として課税するもので、日本を含む多くの国で導入が進んでいます。各国での実質的な炭素税負担は、 OECDの考え方に基づいて次の式で測られます。
実効炭素税率 = 炭素税 + エネルギー税+ 排出枠価格 |
日本では、2012 年に炭素税として地球温暖化対策税が導入されました。この税は、既存のエネルギー税である石油石炭税の仕組みを活用したもので、各化石燃料のCO2排出量に応じて税率(289円/CO2トン)が上乗せされます。
その後、日本の炭素税は段階的に引き上げられたものの、本税であるエネルギー税を加えても実効炭素税率は導入している他国より低い水準に留まっています(図表2)。排出規制に伴う排出枠価格についても、国としての制度はなく、東京都と埼玉県の制度のものが反映されるのみです。
国名 | 2015年の実効炭素税率(円/tCO2) | 1990年比(%) |
スウェーデン | 25,107 | 267 |
フランス | 16,260 | 227 |
日本 | 4,108 | 105 |
カナダ | 2,523 | 163 |
出所:東京都「平成29年度 炭素税導入及び引上げプロセスにおける課題と解決手法に関する国際比較調査・分析等委託 報告書」をもとにPwC作成
【考察】
実効炭素税率が最高水準にあるスウェーデンでもCO2トン当たり約25,000円、日本は4,000円余りで1990年と比べてもほとんど増加していません。炭素税が温室効果ガスの限界削減費用を下回ると削減するよりも税金を払った方が安いため、削減対策が進まないことになります。
限界削減費用はケースによって異なるため一概には言えませんが、例えば、日本の発電における温室効果ガスの限界削減費用は18,000~30,000円との試算があり、本来の課税目的からすると現在の実効炭素税率は低過ぎるのではないかという懸念が生じます。
実効炭素税率を強化できない原因としては、国内での課税強化はビジネスコストの上昇を招き、国際競争力を低下させるという主張が考えられます。日本の実効炭素税率の内訳は、その大部分を揮発油税と軽油引取税等によって輸送部門が直接負担し、産業部門や業務部門はこれを間接的に負担する形になっていますが、気候変動の影響がより深刻化すれば、国際炭素課税との兼ね合いで検討を迫られることになると予想されます。
世界的には炭素税制を持つ国はそれほど多くありませんが、EUでは2026年から環境規制の緩い国からの輸入品に関税をかける国境炭素税の導入が決まりました。今の不安定な国際情勢を見る限り、これが世界的に拡大する様子はあまり想像できませんが、地球規模での削減を進めるために国際炭素課税は有力な手段と考えられます。
いずれにしても課税強化は政策としての難易度が高いため、炭素税のみで削減対策を強化するのは難しく、排出量取引など他の政策とのミックスによって実施すべきという考え方が以前より主張されています。炭素税を強化するには、今後、温暖化が深刻化する中で、この問題に対する社会の意識が大きく変わる必要がありそうです。
温室効果ガスの排出量取引は、もともと北米の工業地帯で硫黄酸化物や窒素酸化物といった大気汚染物質の排出を抑制するために考案された仕組みがベースにあると考えられます。排出量取引を平易に言うと、他者の削減努力を買うことによって、自らの排出を “なかったものにする” 取引です。したがって、排出量取引をしたからといって実際の排出量が減るわけではないことに留意が必要です。
排出量取引は、排出削減がビジネスの縮小に直結する企業や、コストや技術的に省エネが難しい企業にとって、規制当局あるいは顧客から排出削減を求められた場合に他者の削減努力を買うことによって低コストで対応できる、という経済的な意義があります。しかし、この取引が真の意味で温暖化対策に役立つには、排出量取引の前提となる制度上の排出規制や削減プロジェクトの実効性が不可欠です。
なぜなら、取引される排出量の基礎となる “基準排出量” の設定が緩ければ、それを下回ったからといって実際には有効な削減対策にならない恐れがあるからです。これはボランタリーな取り組みに限らず、規制を伴う制度であっても規制の水準が緩ければ同じことが言えます。
また、本来は市場性のない温室効果ガス排出量に取引の誘因を生じさせることを目的に、排出量取引にはいろいろな仕掛けが考案されています。以下では、排出量取引の基本的な仕組みを理解するために、2つの類型である「キャップ・アンド・トレード」と「ベースライン・アンド・クレジット」について説明します(図表3)。
ちなみに、排出量取引が始まった当初は社会貢献的なカーボンオフセットに使用するため、官民問わずベースライン・アンド・クレジットによる仕組みが単独で運用されることが多かったのですが、近年、世界的に排出量取引といえば排出規制を伴うキャップ・アンド・トレードを指すことが多くなっています。
この手法は、主に国や自治体が排出規制を伴う制度として実施します。規制対象主体(企業、事業所など)ごとに排出の上限となる排出枠(キャップ)を定め、枠を超過した主体が、枠内に収まった主体から余剰分を購入(トレード)することによって超過分を相殺できる仕組みです。
本来であれば、規制対象となる主体は排出量が枠内に収まるよう削減行動をとることが望ましいのですが、各主体が実際の削減コストと他主体からの購入コストとを比較し行動することによって、制度全体としてコスト効率的な削減行動が可能となります。これは見方を変えると、規制超過した分をお金で済ますわけですから排出規制に対する緩和策とも言えます。
多くの制度において、規制対象者は毎期の実績排出量を制度当局に報告する義務があり、超過した主体には罰則が科されます。このため、当該報告は第三者による保証業務の対象となっており、監査法人やISO機関が業務を実施しています。
図表4はキャップ・アンド・トレードの導入事例です。このうち世界で初めて本格的に構築されたのがEUETSで、多くの国の手本となってきました。この表以外にも、ニュージーランドや豪州、米国の一部の州といった国と地域で制度が導入されていますが、日本では東京都と埼玉県が自治体レベルで導入しているのみです。
導入時期 | 対象事業者 | 割当・枠管理の方法 | 炭素価格/トン | |
EU |
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韓国 |
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中国 |
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出所:資源エネルギー庁「脱炭素に向けて各国が取り組むカーボンプライシングとは」をもとにPwC作成
【考察】
科学的な温暖化防止の観点からすると、本来削減すべき排出超過分をお金で済ますことができるキャップ・アンド・トレードは気候変動対策としての実効性に疑問があります。キャップ・アンド・トレードがうまく機能するためには罰金、限界削減費用および排出量単価の相対関係が適切な水準になければならず、それがうまくいかないと制度目的を果たすことができません。
具体的に言うと、限界削減費用は与件で、罰金は任意に決めることができますが、排出量単価は市場で決まります。排出量単価は規制が厳しければ高価となり緩ければ安価となるため、規制が緩すぎると排出量単価が限界削減費用より安くなって削減が進みません。かといって規制が厳し過ぎると限界削減費用の高い主体は経営に大きな影響が及ぶため、キャップ・アンド・トレードの制度設計と運用はそう簡単ではありません。
キャップ・アンド・トレードを導入する国や地域は増加しており、中にはEUや東京都のように一定の成功を収めたとされる制度もあるため、これらを参考に今後も試行錯誤が続くものと思われますが、この制度の主たる目的は経済ではなく気候変動対策であることを常に意識することが必要です。
一方、世界レベルで削減を進めるために実効的なキャップ・アンド・トレード制度を作ろうとすれば、まず、地球全体のカーボンバジェットをもとに各国地域の排出上限を定める必要があります。しかし、その役割を担う気候変動枠組条約は地球全体のキャップを設定できておらず、一部の国や地域に限定された制度がバラバラに運用を始めているのが現状です。
以前から、こうした地域限定の制度では、規制された企業が規制のない地域に事業を移すリーケージ問題や、企業の国際競争力を低下させる懸念から効果的な規制値を設定することが難しい点が指摘されています。そのせいか、多くの制度の排出量価格は低迷しており、市場メカニズムが効果的に作用しているのかどうかは疑問です。
京都議定書では先進国の削減義務が定められましたが、それを強化すべきだったパリ協定は削減義務を努力義務に後退させてしまいました。私たちに残された時間はそう多くなさそうです。これまでの先進国対新興国・途上国という構図から脱却し、多排出国や多排出産業にフォーカスした実効的なキャップのあり方を検討すべき段階に来ていると考えられます。
特定の事業やプロジェクトに対して一定の基準排出量(ベースライン)を定め、そこに排出削減対策を実施することでベースラインよりも削減できた排出量を経済価値(クレジット)化し、これを他者に売却できる仕組みで、運営の主体は官民を問いません。
ベースライン・アンド・クレジットは、キャップ・アンド・トレードの制度と組み合わせることも可能です。キャップを超過した規制対象者が当該クレジットを購入することによってキャップ超過分を相殺でき、例えば東京都制度でもこうした仕組みが整備されています。
また、ベースライン・アンド・クレジットで生成されたクレジットは、以前から自主的な取り組みとしてのカーボンオフセットに利用されてきました。
クレジットの例としては、京都議定書で定められたクリーン開発メカニズム(CDM)や共同実施(JI)クレジットが代表的なものです(図表5)。キャップ・アンド・トレードが一般化する以前は、排出量取引と言えばこのクレジットをカーボンオフセットのために取引することを意味していました。冒頭で紹介した東京証券取引所のカーボン・クレジット市場はこのJ−クレジットを対象としています。
通常、クレジットを生む削減プロジェクトには第三者のチェックが求められています。例えば京都メカニズムでは、削減計画量の事前評価(バリデーション)と実施後の実績削減量の検証(ベリフィケーション)が必須となっていて、この検証業務の多くはISO機関が実施しています。
【考察】
ベースライン・アンド・クレジット型の仕組みは本格的なキャップ・アンド・トレードに比べると構築しやすく、民間によるボランタリーなものも多くあり、それらは社会のリテラシー向上に役立ってきました。しかし、
ボランタリーなクレジットは排出基準値の設定が難しく、基準を厳しくすると参加が難しくなる一方、緩くし過ぎるとグリーンウォッシングと言われかねず、場合によっては、余計なプロジェクトの実施によって排出を増やす恐れもあります。
そのため、仕組み自体の信頼性が重要で、そのポイントとしては、仕組みの中に客観的な基準に基づいたMRV(測定、報告および検証)が組み込まれ、それが適正に運用されているかという点が挙げられます。
いずれにしても、今後、地球規模で削減を進めるにはキャップ・アンド・トレードを柱として、信頼性のあるベースライン・アンド・クレジットでそれを補完する形が最も妥当ではないかと思います。
排出量をキャッシュフローに反映させるカーボンプライシングは、温室効果ガス排出の大部分を占める営利企業に対して企業の本質を利用した合理的な気候変動対策です。また各主体は、安く実行できる対策から順に実行するため、社会全体でみれば経済効率的な対策が可能と言えます。
しかし、それらが真に地球規模で実効的な気候変動対策となるには、国際的な炭素課税の枠組みや世界規模での排出枠の設定が必要ですが、今ある制度は全て地域限定であり、規制当局は大胆なカーボンプライシングを躊躇しがちです。特に、排出量の多い産業にとっては大きな追加負担となり、またこうした産業の多くは強固なビジネス構造ができあがっているため、強力なカーボンプライシング導入への抵抗は大きいのが現状でしょう。
そうした中で一筋の光明と言えるのがEUの取り組みです。EUの国境炭素税は、国際炭素課税に向けた大きな一歩であり、また、EUが世界に先駆けて排出削減と経済成長の両立を果たす中でEUETSが果たした役割は極めて大きかったと認識されています。日本をはじめ各国は、これからカーボンプライシングを本格化させるにあたり大いに参考とすべきでしょう。
カーボンプライシングは、炭素価格を市場に取り込むことによって社会全体の経済行動を脱炭素の方向に誘導するものであり、特に、高コストになりがちな新しい温暖化対策技術の普及を支援する有力な手段となります。カーボンプライシングの制度化は複雑で難易度が高いことも事実ですが、私たちは有効に機能するよう開発のペースを速める必要があります。
日本取引所グループ「カーボン・クレジット市場制度概要」
https://www.jpx.co.jp/equities/carbon-credit/index.html
経済産業省「カーボン・クレジット・レポートの概要」2022年6月https://www.meti.go.jp/shingikai/energy_environment/carbon_credit/pdf/004_s04_00.pdf
経済産業省「脱炭素成長型経済構造移行推進戦略【GX推進戦略】の概要」
https://www.meti.go.jp/press/2023/07/20230728002/20230728002-2.pdf
資源エネルギー庁「脱炭素に向けて各国が取り組むカーボンプライシングとは」
https://www.enecho.meti.go.jp/about/special/johoteikyo/carbon_pricing.html
環境省「カーボンプライシングのあり方に関する検討会取りまとめ~脱炭素社会への円滑な移行と経済・社会的課題との同時解決に向けて~」平成30年3月
https://www.env.go.jp/earth/cp_report.pdf
環境省「2030年目標、2050年カーボンニュートラルに向けた成長志向型カーボンプライシング構想について」令和5年1月24日
https://www.env.go.jp/council/content/i_05/000106044.pdf
東京都「平成29年度 炭素税導入及び引上げプロセスにおける課題と解決手法に関する国際比較調査・分析等委託 報告書」東京都主税局 東京都税制調査会(みずほ情報総研)、2018年3月
http://www.tax.metro.tokyo.jp/report/material/pdf/h3003/01/zenbun.pdf
資源エネルギー庁「2030年・2050年の脱炭素化に向けたモデル試算」(総合資源エネルギー調査会 基本政策分科会、第50回会合配布資料)2022年9月28日
https://www.enecho.meti.go.jp/committee/council/basic_policy_subcommittee/2022/050/050_005.pdf
JETRO「EUの炭素国境調整メカニズム(CBAM)に備える」2023年8月31日
https://www.jetro.go.jp/biz/areareports/special/2023/0801/a48cfe7206a68970.html
環境省「MRVってなんだろう?」温室効果ガス排出量算定・報告・検証情報(MRV)ライブラリー
https://www.env.go.jp/earth/ondanka/ghg/mrv-library/1.whats_mrv.html
EU MAG(駐日欧州連合代表部)「世界の最先端を行くEUの気候変動対策」2021年10月28日
https://eumag.jp/feature/b1021/
「カーボンプライシング対応支援」
https://www.pwc.com/jp/ja/services/tax/international-tax/carbon-pricing.html
「気候対策への意欲向上に向けて インターナショナル・カーボンプライス・フロアの分析」
https://www.pwc.com/jp/ja/knowledge/thoughtleadership/carbon-pricing.html
「炭素税、排出権取引などカーボンプライシングの動向と企業の対応ポイント」
https://www.pwc.com/jp/ja/knowledge/journal/keirijouhou2021-06.html
「1.5℃目標時代に対応するための脱炭素経営支援サービス」
https://www.pwc.com/jp/ja/services/assurance/sustainability/zero-carbon-strategy.html
PwC Japan有限責任監査法人
基礎研究所 主任研究員
寺田 良二