日本の未上場企業が上場を検討する際、日本での上場だけでなく、米国での上場も、現実的な選択肢の1つとして近年注目を集めています。その形態も日本企業自身が上場する場合もあれば親会社もしくは子会社が上場する場合などもあり、多様化しています。しかし米国上場はそれほど簡単ではなく、何よりもまず、海外を中心とした事業展開および企業成長の目標と上場の目標を有機的にかみ合わせなければなりません。そして、この「ゴール設定」のうえで準備を進めていきますが、その準備プロセスに係る負荷は相当なものになります。本稿では、日本企業・日系企業による米国上場のトレンドを振り返りながらよく観察される課題に触れ、その準備に係る特有なポイントについて解説します。
なお、本文中の意見に係る部分は全て筆者個人の私見であり、PwC Japan有限責任監査法人および所属部門の正式見解でないことをあらかじめお断りします。
日本企業・日系企業が米国市場に上場する動きは、2000年代中盤頃まで多数の大手企業が上場して活況を呈していましたが、2010年代後半までに多くの企業が上場を廃止しました。それ以降、Nasdaq市場を中心として新たな「上場の波」が訪れています(図表1)。この背景には、企業活動を取り巻く国際社会や市場経済の状況が変化したことに加えて、米国に上場する企業に適用される財務報告・開示・ガバナンス等に係る規制環境も大きく影響していることがあると考えられます。
出所:PwC作成
特に、2010年代後半から現在に至る米国上場のトレンドが新しい特徴を有していることは注目に値します。具体的には、上場した企業の多くが比較的小規模なベンチャー企業であること、各企業の上場後の海外事業の展開・拡大が上場前の期待通りでない事例が多いこと、および米国を含む海外投資家からの評価もかんばしいと言えない事例が多いことが挙げられます。米国上場を達成した企業が国際的市場で一定のプレゼンスを獲得した点では明るい材料があるとは言えますが、このように依然不安定な要素もあり、今後の見通しは明るいとは言い切れません。
こうした動向を踏まえると、単なる米国上場の達成だけでなく、上場後の力強い海外事業展開や海外市場でのプレゼンス向上を実現できる日本企業・日系企業が登場するかどうか、今後の動きが注視されます。本当の意味で「実のある」米国上場を達成し、サステナブルに上場を維持するためには、企業の経営者自身が、「なぜ(日本ではなく)米国の市場で上場するのか」という問いについて、事業の現状と将来の展望を踏まえて透徹した視点で戦略的に検討し、多くのステークホルダーが納得し得る広範な視野と長期的ビジョンを持つことが重要となります。こうした検討やビジョンがなくては、説得的なエクイティストーリーが描けず、海外投資家の支持を得られなくなる可能性があります。さらに、上場を推進する社内のチームにおいて、準備プロセスで直面するさまざまな困難なタスクを遂行するための士気が継続しなくなることも考えられます。仮に上場できたとしても株価が低迷し、何のための上場かという意義を見失ってしまい、数年以内で米国市場から撤退するといった状況も実際に散見されます。
比較的長い期間と多くの労力および資金を準備に費やすにあたり、明確なビジョンやストーリーを経営者が描いた上でプロセスに入るのが重要であることは、日本上場でも米国上場でも構造としては同様です。ただし、特に米国上場の場合、米国を含む海外投資家が日本企業に利害を持つ株主となることで、米国の当局や投資家に対応する義務も課されることになります。したがって米国上場の必然性やメリットを事業・組織・財務等の面から明確に説明できることが、後続のタスクをスムーズに進めるためにもたいへん重要となります。
上記の通り米国上場に係る準備の第一歩は、「なぜ米国に上場するのか」という問いに経営陣が明確な答えを持ち、ビジョンを打ち立てることです。その次のステップとしては、上場までに必要なタスクを洗い出すこと、希望する上場達成時期を確定しそれらを実行するためのタイムラインを計画すること、そしてこうしたタスクやタイムラインに対応した準備を遂行できる社内リソースや社外の専門家チーム(社外パーティ)を組織することがあります。図表2は米国上場までに必要と考えられる広範なタスクと一般的な所要期間を簡単に示したものですが、以下では、米国上場準備のための具体的なタスクの概要や、準備タスクを取り組むタイムライン、プロジェクトに必要なメンバー等についてそれぞれ解説します。
出所:PwC作成
米国上場準備のためには、基本的には本特集の他の論考でも紹介しているような日本市場での上場準備と類似したタスクを実行することはもちろんですが、それに加えて米国市場特有の対応を行う必要があり、対応工数を押し上げる要因となります。米国市場特有の対応のなかで特に重要なのは、下記の3つの領域だと考えられます。
米国上場に向けたタスク領域として、米国を中心とした海外投資家に訴求するエクイティストーリーを構築および開示したり、海外投資家に焦点を当てたマーケティング戦略を検討したりするIR・マーケティングの領域があります。そのために米国および欧州の投資銀行をはじめとした引受証券幹事会社候補を確定して準備プロジェクトを進めることが理想となります。ただし、特に米国上場の場合は引受証券会社のプロジェクトへの早期参画が必ずしも一般的ではないため、これが大きなハードルとなります。したがって、米国市場に精通したIR・市場専門家を巻き込みながら、セクターに専門性のあるファンドマネージャー等を通じて米国市場の投資家層にもアクセスするなど、専門家ネットワークを活用することも重要な鍵となります。
米国で上場するには、主に米国証券取引委員会(Securitiesand Exchange Commission:SEC)が定める諸規則に則った広範な内容を含む英文での開示文書を作成する必要があり、これにはかなりの負担がかかります。さらに、上場目的で投資家向けに作成する目論見書を含む上場登録書類であるForm F-1に対してはSECによる審査も実施されます。
また、Form F-1に含める連結財務諸表については圧倒的に一般的な実務として日本会計基準ではなく国際財務報告基準(IFRS)もしくは米国会計基準(US GAAP)での作成が求められるほか、連結財務諸表の監査は米国の公開企業向けの監査基準である「PCAOB(Public Company Accounting Oversight Board)基準」に準拠して行われます。こうしたSECによる審査やPCAOB監査への対応には通常複雑な専門知識が要求され、対応が長期化し上場時期を遅らせざるを得なくなるなどの影響が生じることもあります。この他に、SECの規則に基づく審査では、日本での上場では求められないような詳細な開示が求められることもあります。いずれの場合も、細心のプロジェクト管理が必要となります。
米国には、巨額不正会計事件の発生を契機に2002年に成立したサーベンス・オクスリー法(Sarbanes Oxley法)に由来する、一般に「US-SOX」と呼ばれる内部統制制度があります。財務数値に直結する個別の諸プロセスの統制だけでなく、年次報告(日本企業のように外国登録企業体(FPI)の場合はForm 20-Fファイリング)等における財務数値以外の開示全般に係る開示統制に加え、CEO・取締役会等を頂点とした全社的な統制も対象となっており、一定のルールに従って企業の経営レベルが主導して整備・運用を進めていくことが求められています。US-SOXの内部統制対応は日本の上場企業が行う「J-SOX法(内部統制報告制度)」よりも広範になることが多く、また、監査人の内部統制監査が経営者の評価をなぞるのではなく、独自に行われる建付けとなっていることにも注意が必要です。一方で監査人による内部統制監査については、一定の条件を満たす新興企業(Emerging Growth Companies:EGCs)には免除が認められており、該当する企業は最大限に活用したいポイントです。
米国ではNYSE(ニューヨーク証券取引市場)、Nasdaqの市場それぞれにガバナンスの要求事項があり、通常、日本企業の場合はFPIとして自国の規制である会社法のガバナンス規定が優先されるものの、一部は米国上場企業として満たすべき条件(例えば、取締役のダイバーシティ要件など)があります。これらガバナンス要件は企業経営のハイレベルな規定や役員など経営陣の人事にも関連することが多く、十分なリードタイムをもって要求事項を確認し、取り組む必要があります。
(1)で見てきた米国上場のためのタスクに対応するには、相応の準備期間を確保する必要があります。一般的には2~3年程度の準備期間を設けて、上記で述べた財務報告、開示、ガバナンスの整備をはじめとして、図表2にも示したようなさまざまなタスクを推進していきます。そして、事業の収益拡大や市場・投資家とのコミュニケーションも図りながら、上場後のサステナブルな企業価値向上や継続開示に向けて取り組んでいくようにします。
一方で、一定の要件が満たされる場合、準備プロジェクト立ち上げから約1年間(やそれ以内)での米国上場が達成されたという事例もあります。そうしたケースでは、発行体の事業が比較的小規模かつシンプル、SECの複雑・広範な開示要件が適用されない、EGC免除が適用可能である、米国SECの開示審査がスムーズに完了する、などの要件が満たされていたと考えられます。ただし、準備不足で上場すると、上場後の株価維持や継続開示に係る負担が重くなる可能性があります。
2~3年程度の準備期間を確保できれば、SEC登録文書で要求される開示対象期間に応じて、プロジェクト中にリアルタイムに収集できるようになります。反対に準備期間を短くする場合、こうした財務情報収集・作成・監査のかなりの部分を遡及的に行うことになり、対応が煩雑になることが考えられます。
(2)で述べた米国準備タスクの遂行には、さまざまな社内・社外のリソースを活用してプロジェクトチームを組織する必要があります。社内リソースについては、米国上場に求められる専門知識や英語スキル等をある程度吸収しながら対応できるようなメンバーを選任することが望ましいと考えられます。プロジェクトの推進には、経理、経営企画、IR、内部統制・内部監査等の管理部署のメンバーを中心としながら、必要に応じて営業、開発、人事・総務などを含めるような全社的な体制が必要となります。また、社内チームの中核にはなるべく強力なスキルや社内での影響力を備えたコアメンバーを数名配置するのが効果的です。
社外パーティとしては、米国上場に係る各種の専門知識を有するファーム等の専門家を選任します(図表3)。米国法弁護士事務所はさまざまな法務リスク等について助言するとともにSECへ提出する上場登録書類(F-1)のドラフトの多くの部分を作成します。監査法人は発行体が作成する連結財務諸表をPCAOB監査基準に基づいて監査し、その他の監査作業を通じて会計・財務報告の正確性を高め、内部統制の向上についても指導的機能を発揮します。会計アドバイザーは、主に連結財務諸表の作成、財務報告に係る内部統制体制構築、監査人への対応について発行体を支援しますが、特に監査人が直接支援できないプロジェクト推進・管理の支援で中心的役割を果たします。最後に、主幹事証券会社については、上述(1)a.で述べたように、米国上場の案件では早期で選任できる事例が少ないものの、なるべく早期に確定するか、他のアドバイザーでその役割を補える体制を検討すべきです。
出所:PwC作成
米国上場を目指す、もしくは達成した日本のスタートアップ企業が増加する中、米国上場は企業にとって決して手の届かない夢物語ではなくなっています。特に国際的な事業展開を検討および実行している企業にとっては、日本上場よりも大きなメリットを享受できると考えられます。ただし、米国上場の準備には多くの複雑で専門的なタスクが必要となり、企業にとっては一大プロジェクトになります。
本稿で述べてきたように、米国上場を成功させるには、専門的検討を行って、必要なタスクを洗い出し、社内の体制を整え、社外の専門家を適切に選任しなければなりません。さらに、洗い出したタスクと選任した社内外の人的リソースを踏まえて適切なスケジュールを立てることで、米国に上場するリスクを最低限に抑えると同時にメリットを最大化することが可能になります。
最後に、長期的な企業価値の最大化のためには米国上場は最終目的ではなく大きな通過点であり、米国上場後も「パブリックカンパニー」として経営と事業の成長をサステナブルに継続していくことが、真に目指すべきゴールだと考えられます。本稿はきわめて簡単な解説であり、米国上場を目指す企業が遭遇する数々の難しいチャレンジのうち一般的なものを要点だけ示したにすぎません。実際の米国上場準備には、数多くの論点についてより詳細な検討や対応が必要となりますが、本稿が米国上場を目指す企業にとって上場という「通過点」に効果的・効率的に到達するための初期的検討におけるヒントとなれば幸いです。
PwC Japan有限責任監査法人
財務報告アドバイザリー部
パートナー 杉田 大輔